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【岡山健二 連載】ミュージックヒストリー - 今までとこれから - vol.1

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2023年夏、ソロ作品では初となる全国流通アルバム『The Unforgettable Flame』をリリースし、その後も会場限定盤・自主制作音源のサブスク解禁や新曲の配信リリース、2024年3月には同アルバムのLP化など、活発な活動を続ける岡山健二(classicus / ex.andymori )。そんな彼にとってひとつの節目を迎える2024年、OTOTSU独占で岡山の音楽人生の振り返りと今後を深堀りしてゆく新連載がスタート。
毎月第4木曜日更新 / 全12回予定。

文:岡山健二
編集:清水千聖 (OTOTSU編集部)


名阪国道を大阪方面から名古屋方面へと、
向かうと三重県はある。

大阪に向かうよりは名古屋に向かうほうが近く、そうなると文化的にもそちらのほうが近いのかというとそんなこともなく。自分の住んでいた伊賀地方の人々は、関西弁を使い日々生活をしているので、そこの距離はあまり関係がないようだ。

名阪国道は一見高速道路なのだが、料金のかからないバイパス道路で、区間は奈良県の天理ICから三重県の亀山ICまで。

道路からの降り口がわりとこまめにあるのだが、それは伊賀地方出身の国会議員が自分の地元に帰ってきた際、使い勝手がいいからそうさせたという話がある。

その幾多の降り口のひとつである上野東ICから出て、左に向かえば伊賀地方で最も栄えている区域である上野市と、その中心地にある上野市駅に辿り着く。道が混んでなければ、車で五分ほどの距離。

街のほうにハンドルを向けるとゆるやかな坂道が待ち構えており、その坂道を登り切った左手にある色鮮やかな黄色の建物が、さわ楽器ミュージックセンターである。

さわ楽器ミュージックセンターがヤマハと提携していたのか、ピアノやエレクトーンを習いに地元の子供たちがその建物に通っていた。

ドラム教室は一階にあり、ガラス窓の部屋なので外からも様子を見ることができる作りだった。(途中から奥にある簡素な部屋になる)

自分は小学六年の夏から通い出した。
1998年の8月ということになる。

自分が生まれ育ったのは、上野市から車で20分ほどの距離の伊賀市(当時は伊賀町)で、忍者発祥の地として有名ではあるが、上野市のような街ではなく、四方が山に囲まれた盆地であり、お店もほとんどなく田んぼと野川だけといった風情。明け方は霧が立ち込めていることが多く、忍びの里というのも納得するような土地柄である。

とくにこれといって取り柄のない少年時代だったが、小学校の六年間が長すぎることに、知らず知らずのうちに気を病んでいたのか、妙に息苦しい日が続くなと思っていたら、いつの間にか小児喘息にかかっており、小学二年から五年まで、毎週土曜日病院に注射を二本打ちにいくという生活が始まった。

病院は車を1時間ほど走らせたところにある県庁所在地の津市にあった。

病院までの道中、母親の車でカセットテープに吹き込まれた様々な音楽を聴いていたのが、
その後音楽をやっていく上で意外と大事だったのだなと後々気付かされるのだが、それよりも当時の自分にとっては、病院帰りにたまに立ち寄るドライブイン(名阪国道の関IC)のエビフライカレーの美味しさ、カレーと揚げ物はこんなに合うんだなぁといった感激や、初めて知る外食の楽しさ等のほうがよっぽど一大事であった。

思えば自分はその通院から多くを学んだ。

一本目の注射がどんなものだったか覚えてないのだが、二本目は小さな注射器に入ったきれいな青色の薬品で、それを右手の肘の内側に打たれると、大体15分ほどで腕に鈍く重い痛みがやってくる。風邪をひいたときの関節の感じや成長痛に似ている。段々と、だけど確実にやってくる恐怖。

待合室ではいろんな人を見かけたはずなんだけど、不思議とあまり覚えていない。

絵本を読んでいたのか何なのか、延々と「なんじゃらほい」と言い合っていた自分と同い年くらいの男の子の兄弟のことははっきりと覚えているが。

窓も何もなかったので基本重苦しい雰囲気で、白髪のおばあさんが手帳をめくって何かを書きつけていたり、熱を出した子供を抱いている母親、仕事の途中で体調を崩したのか作業着姿のままのおじさんだったり、よくある病院の風景だった気がしているのだけど。

TVがずっとついていた記憶もある。熱帯魚なんかもいて、その水槽のモーターの音も何となく覚えている。

通い始めた頃に数時間点滴を打っていた日があったのだけど「あぁ自分はもう帰れないかもしれない」という謎の絶望にかられ、その時に延々と流れていたという理由で、とある医療団体のCMが見事に苦手になってしまった。一瞬であの待合室の雰囲気が蘇ってくる。それと病院の先生、付き添いの二人の女性看護師の顔は、たぶん忘れることはないだろう。

その待合室で母親がよく本を読んでくれた。その中でも「エルマー」のシリーズが最も記憶に残っている。

読んでくれていたということは小学二、三年の低学年の頃だったのか。恥ずかしさもあったが何より注射の作用で腕が痛むので、気を紛らわすべく母親の声に耳を傾けているしかなかった。エルマーの絵は今でもいい絵だなと思う。

待ち時間が数時間に及ぶこともあったので
「身体でも動かしますか?」と、病院の一番上の階で患者のために行っているというエアロビクスとヨガの教室を勧められた。

どちらも見学に行ったのだが、エアロビクスの自分より少し年上の子供たちの溌剌(はつらつ)とした様子に、これは馴染めそうにないなと子供ながらに思い、地味で静かそうなヨガの方を選んだのだった。

そこで身体の使い方というか、いわゆる柔軟を教わり(座禅もそこで初めて知った)それを未だに続けていたりする。(おかげでドラマーにつきものといわれる腰痛にはそこまで悩まずに済んでいるのは、とても幸運なことだなと思う)

三年に及ぶ喘息も快復の方に向かっていったこともあり、四年生の途中からサッカースクールに入るのだが練習に励むも試合のプレッシャーに耐えきれず、最後はあまり行かなくなってしまう。

丁度その頃に、母親が地元の新聞の広告で、
ヤマハがドラムスクールを開設するという記事を見かけ「これは健二に合うんじゃないか」とひらめき、結果今に至る。

最初自分は何だか恥ずかしそうで断った記憶があるのだが、うまく言いくるめられたのか、気付いたら例の黄色い建物の自動ドアをくぐっていた。

西田律子先生は当時は三十代だったのだろうか。ポニーテールのよく似合う快活ながらも少し影のある女性で。(この人の音楽的センスがあったから自分は今も音楽ができているのだなと日頃から感謝している恩師)

西田先生は元々エレクトーンを教えていたらしいがおそらく大人になってから、ドラムを習得し(開設予定の上野のヤマハに合わせて、ドラムを始めたのかもしれない)上野のさわ楽器のヤマハ音楽教室のドラム講師をそこから十年以上続けることになる。

生徒はどれくらいいたのだろう。定かではない。発表会などもなかったので他の生徒と触れ合う機会もなかった。

自分より前の時間にドラムを習っていた、B’zの「LOVE PHANTOM」を16符のクローズ・ハイハットで延々と叩き続けていた彼は、今もドラムを続けているのだろうか。

自分はそのヤマハには十六才まで通った。

途中、西田先生が産休のため一年ほど岡安先生という女性(少しカールした茶髪に黒っぽいシックな服装が印象的だった)に引き継いでもらっていたが、あとはずっと西田先生だった。

中学三年の時「卒業したら高校行かずにドラムをやる」と話したら「高校は行っといたほうがいいで」と諭(さと)してくれたり「音楽やってくなら横のつながりが大事やで」とアドバイスをくれたり(今も一応気をつけてはいる)

自分はずっと楽譜に弱く、結果ヤマハにいる間中、それを克服することはできなかった。(今も、さほど得意ではない)西田先生としてもそこは心残りだと言っていたが、まだ声変わりもしていなかった子供の頃からドラムを教えた少年が高校生にもなり、音量も出せるようになったし、難しいリズムパターンも叩けるようにもなり、それにそもそもジュニアドラムコースだったので、ぼちぼちこの辺だろうと先生のほうからレッスンの終わりを切り出してくれた。

最後の日、母親と西田先生はどこかさみしそうに、でもとてもあたたかな様子で何か話をしていた。(送り迎えは最初から最後まで母親が車で行ってくれていた。)

女性にしかわからないことってあるのだろうな、なんて思いながら遠まきに見ていた。
二人は何かプレゼントを交換し合ってたっけ。自分だけの静かな卒業式。

西田先生の紹介で、自分は次の月から大阪の心斎橋三木楽器のドラムスクールに通うことになったのだった。

約五年間の間で一体どれくらいの曲を演奏してきたのだろう。ヤマハの教本に書かれた曲のドラムフレーズをコピーし、一曲終えるごとにカセットテープに日付と演奏を録音していった。

手元に残っているカセットテープを二十代の半ばにMDに移し替えて、ずっと手元に置いてあった。今回この文章を書く流れで久々にその音源を聴いてみた。

最初の日付は1998年。まだ子供の声の自分が関西弁のイントネーションで、日付を言ってるのを聞くとなぜか笑ってしまう。

「パパ・ドント・プリーチ」1998.11.28

ヤマハで演奏してきた曲の一覧(多分この他にも、もっとあるはずなのだが録音で残っているのはこれだけ)

「パパ・ドント・プリーチ」(1998.11.28)
「イエロー・サブマリン」(2000.10.14)
「ロコ・モーション」(2000.11.11)
「ワイルドで行こう」(2000.11.25)
「黒い炎」(2001.1.13)
「ユー・リアリー・ガット・ミー」(2001.1.27)
「フール・フォー・ユア・ラブ」(2001.3.10)
「ネバー・エンディング・ストーリー」(1999.1.23)
「シャイン」(?)
「ロッキーのテーマ」(2000.7.22)
「ウィンター・ソング」(2000.8.26)
「セイイング」(2000.9.23)
「蝋人形の館」(99.11.23)
「???ラブ」(1999.12.25)
「LOVE」(1999.12.25)
「セイイング・オール・マイ・ラビング」(1999?)
「ファンキーフラッシン?」(2000.5.27)
「モダン・ガール」(2000.6.10)
「可愛いアイシャ」(2001.12.19)
「ダン・ザ・シャンブル」(2001.11.21)
「ロックンロール・メドレー」(2001.4.28)
「ミッション・イン・ポッシブルのテーマ」(2001.5.13)
「イン・ザ・スロット」(2001.7.18)
「永遠のメロディー」(2001.8.22)
「オールウェイズ」(2001.9.19)
「スウィート・メモリーズ」(2001.10.13)
「夜明けのランナウェイ」(2003.1.22)
「ASAYAKE」(2003.3.5)
「ソウルマン」(2003.3.5)

RELEASE INFORMATION

The Unforgettable Flame (LP)
岡山健二

2024.03.20 Release
monchént records

Price: 4,500 yen (tax in)
Format: LP

★ブックレットに書き下ろしライナーノーツ掲載
★ディスクユニオン&DIW stores予約特典:
 オリジナル帯

Track List
Side A.
01. intro
02. 海辺で
03. 名もなき旅 

Side B.
01. あのビーチの向こうに空が広がってる
02. 軒下
03. 永遠 
04. My Darling

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