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【岡山健二 連載】ミュージックヒストリー - 今までとこれから - vol.2

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2023年夏、ソロ作品では初となる全国流通アルバム『The Unforgettable Flame』をリリースし、その後も会場限定盤・自主制作音源のサブスク解禁や新曲の配信リリース、2024年3月には同アルバムのLP化など、活発な活動を続ける岡山健二(classicus / ex.andymori )。そんな彼にとってひとつの節目を迎える2024年、OTOTSU独占で岡山の音楽人生の振り返りと今後を深堀りしてゆく新連載が、2024年1月からスタート。
毎月第4木曜日更新 / 全12回予定。

文:岡山健二
編集:清水千聖 (OTOTSU編集部)


中学3年になる少し前だったか、学校から帰ってくると、2階の兄の部屋から今までに聞いたことのない音楽が流れていた。

そして、その音楽に合わせて誰かが歌っている声も聞こえてきた。新しい風が吹いたような感覚。

声の主は、兄の同級生の赤畠功一(アカハタコウイチ)(以下略称 : こーちゃん)
音楽はTHE BLUE HEARTSだった。

その話より少し遡るが、中学2年の冬に自分と兄の岡山高志(オカヤマタカシ)(以下略称 : 兄)と、その同級生の岩倉範和(イワクラノリカズ)(以下略称 : のりかっちゃん)さらに梶原(カジワラ)くん、金(キム)くん。その5人でRED HEART(レッドハート)というバンドを結成して、地元の「ふるさと会館 いが」で開催されるZUBADON(ズバドン)というバンドコンテストに応募したのであった。

レッドハートは、ブルーハーツのような名前ではあるが、音楽性は(といってもオリジナル1曲しかレパートリーはなかったが)当時流行していたビジュアル系に近く、ロックというよりかはビジュアル系的な歌唱法のキムくんと、KISSフリークの梶原くんによる速弾きギターソロ、同じくギターの、のりかっちゃんが崇拝するB’zのような雰囲気に、ブルーハーツのような速いテンポ。自分とベースの兄は、わりと実直なリズム隊といった感じ。確か曲名は「ドリーマー」だった。

その1曲だけ練習してコンクールに行ったのだが、辛口審査員で有名なSさんが、レッドハートは技術がおぼつかないと評し落選。(リズム隊は悪くないとも言っていたという話も残ってるが、自分の記憶にはない)

ZUBADONに出ていた兄達(みんな自分より3つ上だった)と同い年のバンドがILLUSION(イリュージョン)で、これは伊賀上野では、ひとつ頭の抜きん出ているバンドだった。

ギターボーカルは川合翔太くん(通称 : しょうさん)(現在も三重で「ホームズセブンティーン」というバンドで活動している)彼らの曲の「人生行路」の歌い出しは「夢、その言葉は人生と同じだ〜」といった感じだったのだけど、その歌詞が審査員のSさんの何かに引っかかったのか、「17才で人生語るな」といった辛口な意見であった。でも、演奏や曲のクオリティを認められILLUSIONは合格した。

その年のZUBADONをみんなで観に行き、自分たちもILLUSIONみたいにパンクっぽい曲をやりたいなというムードになっていった。

話は戻り、レッドハートも自然消滅し、バンドもなくなったと思っていた頃に、家に帰ると、新メンバーのこーちゃん、そしてパンクの曲。
自然とバンドをやる雰囲気になっていて「これがブルーハーツか」と、みんなでライブ映像を見て、この曲をコピーしてみようと始まったのが、the chocolate pie(ザ・チョコレート・パイ)だった。(以下略称 : チョコパイ)

チョコパイの初ライブは、すぐに決まった。中学3年の春休み、当時の中学の校長が、何か文化的なことをやろうと言って、文化祭シーズンではない春休みにライブイベントを開催することになる。イベント名は「SUPER PACHI PACHI 2001」。そこでチョコパイは、ブルーハーツの曲を演奏する。

広い体育館にドラムは生音。ギターもアンプはあるが、その音を拾うマイクはなかった。
体育館のような広い会場に、まともなPA装置のないバンドの音が響くわけもなく、コンセントの差し口2つでバンド全体の電気を任せていた。(マイクは別だったか)

バンドが1曲目を演奏し始めると何故か、いきなりブレーカーが落ち、取り残されたドラムだけが寂しく響き渡る。しばらくすると復旧したので、仕切り直しでもう一度演奏を開始すると、さっきよりは長く演奏できたが、1分ほどで、また電気が落ちる。会場の失笑、ライブとは関係なく遊び回ってる子供たちの声。そこからどう切り抜けたのか覚えてはいないが、その後は電気も落ちることもなく、何とか最後まで演奏することができた。なかなか苦いステージの記憶。

自分はその他にも、母親と、その音楽仲間の山本さん、増岡さん、そしてキーボードの女性(名前は覚えていない)の4人でビートルズの曲を演奏するバンドでもライブをした。ボーカルはおらず、代わりにキーボードがメロディを弾いていた。
思春期真っ盛りだったので、母親と一緒のステージに立つというのはなかなか複雑な心境だったが、(ついさっきまで同じステージでパンクを演奏もしていたし)今にして思えば、いい思い出のひとつだ。

それと前後するのだけど、家の近くの公民館でもやった。老人たちの寄り合いで、自分と兄の祖父が、その地域の色々を取り仕切っていたこともあり(孫自慢の意味合いもあり)昼間から老人たちが幕の内弁当などをつつきながら、お酒を飲んでいる空間で、ギター抜き(のりかっちゃんは卓球の試合があったことを忘れていて、急きょ不参加)の3人で演奏した。

ライブ終わり、謝礼ということで5,000円をもらったので、3人で近くの中華料理屋に行きラーメンや餃子を食べた。

長い間、それが音楽でもらったはじめてのお金だと思っていたのだが、最近何かの流れで父親とその時の話になり、そうしたら、あれは父親が祖父に、演奏して何もないのはあまり良くないと思い、あいつらにあげてくれと渡されていたものだったのだという事実を知り、ああ世の中はそんなふうに回ってるのだなぁと思ったりしたのだった。

そのライブを終え、次のライブは5月。
ILLUSIONのしょうさんが新バンド「壱番星(イチバンボシ)」を結成し、そのライブにチョコパイを誘ってくれたのだった。
その日に向けて猛練習を開始。週4くらいで集まっていたか。
ライブ会場は、上野のサワノ楽器という楽器屋のスタジオで(そこは昔から伊賀地方のバンドがよくライブしていた場所だった)
ライブの半分以上をオリジナル曲で演奏できるくらいの曲を用意した(この日の映像も残っている)。コピー曲はハイロウズ、ゴイステ、RIZEをやった。

そのライブが終えてからは、夏頃にまたサワノ楽器で。この辺りからパンクバンドのTシャツや、細いパンツを手に入れて、それらしい服装を目指していくようになる。
この日のライブ前に(この頃から、のりかっちゃんは、岩倉WATARUと名乗り出す)(以下略称 : ワタル)ワタルと自分が床屋でモヒカンにしてくださいと頼むも、店員さんもやりたくなかったのか、結果出来上がったのは、坊主頭の上の部分だけが少し盛り上がっているような、ソフトモヒカンとも、また少し違う、妙な髪型だった。
それでも自分は、これでまたパンクに近づいたと意気揚々とライブに臨んだのだった。
たぶんワタルも同じような気持ちだったのじゃないかなと思う。

自分と兄は、チョコパイを始める前は、2人でよくベンチャーズの曲を演奏していた。母親の兄が地元で、ザ・ミドルズというベンチャーズやGS(グループサウンズ)のコピーバンドをやっていたので、その影響である。

チョコパイの4人は誰も彼女がおらず、ただひたすら練習をするしかなかったので、岡山家のガレージに集まり、毎日毎日バンド練習を繰り返していた。(アンプ類は、母の音楽仲間の増岡さんが何台か貸してくれていた)

しょうさんも高校中退していたので、時間があったのか、結構な割合で岡山家にいた。
自分と兄が学校に行ってしまってる時も家にいたりした。

彼がMTR(エムティーアール : 録音機器)を持っていたので、彼に頼みデモテープを録音してもらった。

伊賀地方には自分が小学校低学年の頃に出来た「ふるさと会館 いが」という大ホール、小ホールからなるイベント会場があり、発表会だったり講演会などで、たびたび使用されていた。

ZUBADONは大ホールのイベントで、2日間に渡り、高校生から大人のバンドまでが出演する1年に1度の、当時の自分たちからするとロックの祭典のようなイベントだったのだが、それとは別に、地元のANTIQUE(アンティーク)という大人のバンドが開催していた「DEAD OR ALIVE(デッド・オア・アライヴ)」というイベントがあり、それにチョコパイも出ることになった。

当時の伊賀のバンドシーンはビジュアル系(GLAY、LUNA SEA、L’Arc〜en〜Ciel)などの流れを汲んだバンドが多く、パンクはかなり肩身が狭かった。名張の「IMAGE(イメージ)」というバンドがすごく人気があった。

大人たちに混じり何とか演奏はしたのだろうけど、ライブの光景は全然覚えていない。たしか日付は7月上旬だった気がする。なぜそんなに覚えているかというと、出演者に配布されたイベントのフライヤーを、せっかくだからと思い、学校に持っていき先生に頼み、掲示板に貼ってもらったからなのだ。

ライブは土日だったのだが、木曜か金曜のホームルームの時に担任の福井先生(音楽の先生でもあった)が 「皆さん!健二がデビューします!」と、みんなの前でライブ情報を紹介してくれたからなのだった。(ライブデビューという意味だったのだろう。もう何回もやってるんだけどなと内心思ったが)

その時はさすがに恥ずかしかったが、今にして思うと先生なりの思いやりを感じる、なかなかいい瞬間のひとつだ。

壱番星のドラムの岡本くん(以下略称 : カモちゃん)には大阪のバンドとつながりがあった。
みんな大阪に憧れがあったので、カモちゃんにくっついて、大阪までライブを観に行くことになった。

たぶんカモちゃんには、何組も知り合いのバンドがいたのだが、その中のルーニーズというバンドは、高校生のスリーピースバンドで、クラッシュやグリーンデイ、イースタン・ユースやブラフマンなどの日本のインディーズのバンドもコピーしたりしていた。会場は難波BEARS(ベアーズ)。

ライブ後は、アメリカ村の三角公園、甲賀流というたこ焼き屋の上にあるパンクショップ「DART(ダート)」に行って、クラッシュやラモーンズのTシャツを買ったりして喜んでいた。中学3年の自分にとっては、大阪のアメ村こそが世界で一番行きたい場所だったのだ。

しょうさんが滋賀県の水口(みなくち)辺りで弾き語りをしていて、それを観に来ていた女子高生たちのつながりで、滋賀県の「カウンターアタック」というバンドを知ることになる。

自分たちよりもずいぶん年上で、すでに大人のバンド。カセットテープやCD-Rではなく、ちゃんとプレスされたCDを作っていて、そのCDに入っている「LITTLE BOY(リトルボーイ)」という曲に、みんなでしびれ(リトルボーイとは原爆の名前だ)コピーして、ライブのレパートリーに加えたりしていた。そうこうしてるうちに、チョコパイで、「WATARUのテーマ」という「リトルボーイ」そっくりの曲が誕生したりもした。

そんな流れがあり、おそらく、しょうさんか、カモちゃんが話を進めてくれたのだろう。9月に壱番星とカウンターアタックとチョコパイとが出る大阪でのライブが決まった。会場は難波にあったGATE3(ゲート・スリー)というライブハウス。

初めて観るカウンターアタック。
CDで聞いていた曲たちも、はじめて聴く曲も、どれもよかった。ボーカルの向井さん、ギターのとっちくんのソロが印象的だった。

ライブが終わり、打ち上げも一緒に連れて行ってくれて、何かいろいろ話した気がするけど、緊張して、ろくに何も喋れなかったようにも思う。

その後も、大阪にライブにし行ったり観に行ったり、その帰りにダートでパンクTシャツや、冬には念願の革ジャンを買った。

その他には、松坂や津にも行ったりと、いろいろと活動の場を広げていったチョコパイだけど、その後どうなるかというと。兄とワタルが通っていた工業高校とは別に、こーちゃん(その頃はもうギルバード赤畠と名乗っていた)(以下略称 : ギルバード)は1人だけ農業高校に通っており、そこの友達とも音楽をやったりで、いろいろ楽しんでいる様子だった。

そのうちに津のBASS1(ベースワン)というライブハウスでクリスマスにライブしないかという話があり、みんなで出ようかどうしようか相談していると、こーちゃんが「クリスマスはあかんなぁ」といった感じで「どしたん?」と聞いたら、「ちょっと、彼女ができた」となり、みんな驚いたのだった。

こう言ったらなんだが、特に何もなかったような男子高校生たちに、彼女ができるようになっていくという、改めてバンドというもののすごさを思い知った出来事だった。

クリスマスのライブはどうなったかというと、仕方がないので、3人だけでライブに出ることにした。それぞれが数曲ずつ歌った。(自分はブルーハーツの終わらない歌だった)

ライブ終わりに話しかけてくれた女の子がいて、ドラムボーカルをやるとこんなことがあるんだなとびっくりした。

クリスマスのライブと、どちらが先だったか思い出せないのだが、たしか年の瀬に、もう一度大阪でライブが決まり、(それも壱番星のイベントだと思う)それが4人での最後の演奏になった。

とてもかっこいい演奏ができ、曲もオリジナルのみで通したし、1年ほど前の体育館のステージで停電騒ぎに振り回されていたバンドとはまるで別物になっていた。

誰かがビデオを撮っていたので、その後見た記憶はあるのだが、今はどこかに行ってしまい、見ることができない。しょうさんが「家にあったかなぁ」とも言っていたけど。

しょうさんは当時けっこう岡山家にいて、祖父がよく缶コーヒーやお菓子を差入れしたり、いろいろ気にかけてくれていたらしい。

自分の家は、ある種コミューン的な雰囲気があったのだろう。
しょうさんの他にも、チョコパイメンバーや、前田という自分と同い年の少年、壱番星の友達の大阪のバンドマン(みんな高校生だったけど)みんな週末に泊まりに来ていた。

母親も、音楽をがんばってる若者たちを世話するのが好きで、即席ラーメンを土鍋に大量に作ってくれたり、ピザを作ってくれたり、何かと世話を焼いてくれた。

さて、チョコパイはというと、残された3人(兄、ワタル、自分)で、バンド名もGANG ROCKER(ギャング・ロッカー)に変え、伊賀上野の「DREAM(ドリーム)」や松坂の謎のお店「うたっち」でライブをしたり、3〜4曲入りのデモテープも作ったりした。けっこう良い内容のものができたなという印象で、もし手元にあれば聴いてみたいのだけど、残念ながら無い。

12月にギルバードがバンドを去り、3月には兄とワタルが高校を卒業。

ワタルは名古屋に就職(トヨタ)兄は大阪の大学に進学することに。ギルバードは三重の工場に就職したという話を聞いた。

特に解散などという話はしなかった。

約1年後の正月に久しぶりにみんなで家に集まった。いろいろ話したりしてるうちに録音でもしようとなり、かつてのレパートリーを演奏してみたのだが、個人的には、その音源たちは、それほど気に入ってはいない。
やはり練習し続けていた日々の音源のほうが息が合っていて、とてもかっこいいなと思う。ここでチョコレートパイは終わったみたいだ。(2007年頃、1度だけライブをした。)

みんながそれぞれの進路に向けてバタバタし出した。ライブもないし、あんなに毎日続けてきた練習もしなくなった。ワタルが車を買ったので、みんなでドライブしたりもしたが、もうすぐみんな離ればなれになるということもあり、どこか寂しい空気が流れていた。

自分はといえば、塾には通っていたが、推薦入学に落ちたことから、いらいろとやる気をなくし、高校には行かないなど言い出した末の、普通に授業にさえ出ていれば、誰でも入れるといった感じの高校に入学が決まり、塾で入試に備え、勉強し続けた日々は一体なんだったんだろうと思ったりしていた。

そんなある日、しょうさんからカウンターアタックのドラムが抜けるらしいというメールが来た。
 
自分「叩きたいなー」
しょうさん「言っとこか?」
自分「いや、でも俺中三やし、若すぎるわ。次叩く人が抜ける時にやりますと言っといてくれへん?」みたいな冗談まじりのやり取りをした。

そうこうしていると、カウンターアタックのギターのとっちくんから「そんなに叩きたいんやったら一回スタジオ入ろうや」と連絡が来た。(しょうさんが本当にメールを送ってくれていたのだ)

自分の人生には何度もこういう瞬間があった。新たな世界の扉が開くような瞬間。
ひとまず、次に向かう場所ができた。

チョコパイを活動していた一年の間も、自分はずっとヤマハのドラムレッスンには通っていた。

以上が、チョコパイこと、the chocolate pieの話。

・デモテープ

the chocolate pie
「the chocolate pie」

1.夏の思い出
2.もう一人の自分
3.地球が最後と知ったら
4.WATARUのテーマ

the chocolate pie
「初期衝動 ~おい、テクニックじゃないって~」

1.神様との契約
2.赤い月
3.地球が最後と知ったら
4.スポットライト
5.WATARUのテーマ

GANG ROCKER
「GANG ROCKER」

1.punk rock
2.あきらめるな
3.仲間
4.the gang

RELEASE INFORMATION

The Unforgettable Flame (LP)
岡山健二

2024.03.20 Release
monchént records

Price: 4,500 yen (tax in)
Format: LP

★ブックレットに書き下ろしライナーノーツ掲載
★ディスクユニオン&DIW stores予約特典:
 オリジナル帯

Track List
Side A.
01. intro
02. 海辺で
03. 名もなき旅 

Side B.
01. あのビーチの向こうに空が広がってる
02. 軒下
03. 永遠 
04. My Darling

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