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【岡山健二 連載】ミュージックヒストリー - 今までとこれから - vol.4

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2023年夏、ソロ作品では初となる全国流通アルバム『The Unforgettable Flame』をリリースし、その後も会場限定盤・自主制作音源のサブスク解禁や新曲の配信リリース、2024年3月には同アルバムのLP化など、活発な活動を続ける岡山健二(classicus / ex.andymori )。そんな彼にとってひとつの節目を迎える2024年、OTOTSU独占で岡山の音楽人生の振り返りと今後を深堀りしてゆく新連載が、2024年1月からスタート。
毎月第4木曜日更新 / 全12回予定。

文:岡山健二
編集:清水千聖 (OTOTSU編集部)


上京して自分は西東京市の田無(たなし)という街に住んでいた。カウンターアタックが活動していなかった半年くらいの間に、THE PANのツアーサポートをしたのだけど、そのギターVo.である荻原剛さん(以下:剛さん)が「東京に来るなら、しばらく家にいてもいい」と言ってくれたからで。

1ヶ月ほど剛さんの家にいたのだけど、バイトも見つけないとなと思い、駅前の居酒屋に面接に行ったら採用してくれたので、数日通っていると、そこの店に出入りしている田中さんという料理人のおじさんが、「最近離婚して部屋が余ってるから住んでもいいよ」と提案してくれ、月々2万5千円で、2階角部屋の4畳半を借りることになったのだった。

部屋に小さなキッチンはあるが、トイレと洗濯機は共用部分にあった。風呂は無く、銭湯に通っていた。田中さんは1階で小料理屋を経営していたので、お腹が空けば500円で、しっかりした料理を作ってくれたりもした。

母親は東京に送り出してくれたが、父親は反対するだろうなということで、黙って東京に来た。1ヶ月ほど経ち、田中さんの家に住むことになった辺りで、父親に東京に住むことにしたと電話をした。

自分は高校を1年留年した上に、大学で東京に来たわけでもなかった。バイトもバンド練習も何にもない日は、よく自転車を乗り回していた。

THE PANの活動を終えた剛さんは、ぬっきー(ギター)みやじい(キーボード)と自分、そしてベースに、THE PANから再び市川大輔さん(以下:大輔さん)を呼び戻し、5人でSoul Circle(ソウル・サークル)というバンドを始めた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズが、ライブ前に行うという円陣のことを、そう呼ぶらしく、剛さんがこれがいいと思うんだと言い、バンド名に決まったのだった。音源はCD-Rで1枚作った。実物はもう手元にないが、ジャケットも渋く内容も良かった。

上京1年目は今思うとけっこう大変だった。バイト先にも全然馴染めなかった。それでも何とか3ヶ月続けたが、ある日糸が切れたように「やめよう」と思い、店を辞めることにした。最後の日、社員さんが「岡山辞めるし飲みに行くか」と、みんなで話してくれていたのに、「僕はやめときます」と帰ってしまったりしていた。

バイトをやめたことを田中さんに言えないままでいたので、バイトに行くフリをして、毎日、近くにある小金井公園という大きな公園に行き、時間をつぶしていた。
2~3週間、そんな感じで過ごしていたが、夏も終わり、涼しくなってきたこともあり、再びバイトを探すことにした。結果、吉祥寺のパスタ屋に落ち着いたのだった。

Soul Circleは、そこから半年ほど活動を続けていたのだけど、次第にライブやリハーサルの数が減っていった。問題とまではいかなくとも、些細なことがいろいろあったように思う。自分も当初描いていたような活動ができず思い悩んでいた。

しばらく考えたが「やっぱりバンドをやめさせてもらおう」と思い、そのことをメンバーに話した。そうしたら「何故やめるのか」という話になり、理由という理由もとくに考えてなかったので、苦しまぎれに出てきたのが「アメリカに行きたいから」という言葉だった。
たしかに、バイトをやめて公園でブラブラしている時に、漠然とアメリカに行ってみたいと思うようになっていたのだった。

そう言ってしまうと本当に行かないといけないムードになってしまった。メンバーもアメリカに行くのなら仕方がないといった具合で、応援さえしてくれる感じになった。
それが、たしか5月。

Soul CircleおよびTHE PANと親交の深かったバンドにHIGHWAY61がいて、自分は彼らの周りをウロウロしていた。毎年、6月1日にHIGHWAY61が新宿LOFTでイベントをやっており、自分も予定を合わせ観に行ったのだけど、その日、出演していたザ・ラヂオカセッツというバンドが、自分と同い年で演奏もカッコよく、ライブ終わりにメンバーに話しかけてみたら、すごく面白い奴らで、自然と、その後もよく遊ぶようになった。

当時、ザ・ラヂオカセッツでギターを弾いていた柿元亮くんが少し前にアメリカに行ったという話を聞き「俺も今度行きたいと思ってるんだけど、いろいろ教えてよ」という流れになった。

それで彼から話を聞いていると、彼の従兄弟のお姉さんが旅行会社で働いており、航空券を比較的取りやすい、相談しやすい状況にあるということがわかった。それで自分も、亮くんについてきてもらい、お姉さんが勤めている会社まで出向き、どんな感じで旅行したいかを相談したのだった。

結果、9月末にニューヨークに着き、12月末にロサンゼルスから帰ってくるチケットを取ることになった。3ヶ月に渡る、東から西へアメリカ大陸横断の旅。

バンドメンバーにアメリカに行くと告げてからのライブ活動はどうなっていたのだろう、あまり覚えてない。変わらずに月1.2本はライブをしていたようにも思うけど。
アメリカ旅行の資金を貯めるべく、パスタ屋の他に、ラーメン屋も掛け持ちするようになった。
田中さんのお店の常連さんや、ラーメン屋の社員さんもカンパだと1万円を手渡してくれたりもした。

旅の資金を稼ぐための日々も終え、ようやくアメリカに渡ったのが、21才になる3日前で(今はどうかわからないけど、当時のアメリカは21才になってないと、ライブハウスに入ることができなかった。入り口でパスポートの提示を求められることも多かった)

いざ空港に到着した時、「あぁ、本当に来てしまった」と、ほとんど目的を達成してしまったような気分になったことを憶えている。

移動手段として、グレイハウンドバスという、ほぼアメリカ全土を走っているであろう長距離バスの2ヶ月のフリーパス(約7万円)を購入した。宿泊は、各地のユースホステル(主に相部屋)で、前日にその日泊まっている宿のパソコンを使い、メール予約を入れ、(当時はまだスマートフォンがなかった)次の街へと移動をし続ける。食事は、安く、ファーストフードよりかは栄養がある気がするという理由で、中華料理ばかりだった。
ライブハウスに行くと、その頃、自分はそこまでお酒を飲まなかったので(今もそこまで飲まないが)大体、オレンジジュース1杯で、数時間ねばっていた。ビールはバドワイザーをよく頼んだ。

昼間は大体、街を散歩していた。美術館や博物館、公園などお金のかからないような場所にばかり行って、建物や人を眺めていた。

旅の定番本「地球の歩き方」を片手に、その土地土地の名物、観光スポットを回ったりしていた。何度か危険な目にもあった。
ニューオリンズでは銃声と、それに伴う悲鳴と車の急ブレーキの音、ロサンゼルスでは、バスケットボール選手のような黒人に強制的に道案内するからとついてこられ、結果、お金をせびられた。その際、金額交渉をしたりもしたのだけど、結果20ドルくらい渡してしまった。外国人との交渉というものを覚えた瞬間だった。
グレイハウンドバスで寒い地域を移動している時に、乗り込んだ時から具合悪そうにしていたおばあさんが、知らぬ間に息絶えてしまっていたりもした。運転手さんが指で十字を切っていたのを、よく覚えている。

アメリカから帰ってくる少し前だと思うのだけど、剛さんから年明けに渋谷ラママでライブに誘われたから、その日だけ出れないか、3人でやろうと連絡を受け、自分もその辺りなら日本に帰っている、やりましょうと返信したのだった。それがTEAM VERYSの始まりだった。

Soul Circleは、レッチリとかマルーン5を意識したR&Bっぽいコード進行(自分はそういう風に解釈している)やリズムで、少し大人な音楽をやろうとしていたのだけど、剛さん、大輔さん自分の3人でスタジオに入ってみると、自然とパンクっぽい音というかムードで、たぶん剛さんはそういうのをやりたかったのだろう。それに自分も本来はそういうことをやりたくて東京に来たわけで、ようやく色々とうまくはまった感じがあった。

30分ステージを通せるくらいの曲もすぐに出揃い、サウンドもいいねとなり、ライブに臨んだ。ライブもけっこう好評で、次の予定もすぐに決まった。3人でのライブがどんどん増えていった。

ツアーにもけっこう行った。名古屋、大阪にも定期的に行くようになったし、自分以外の二人が長野出身ということもあり、長野や、新潟。関東は、東京の他には、熊谷、千葉が多かった。お客さんがイベントを組むからと、福島や仙台にも呼んでもらったり、1stアルバムを出す頃には、一番遠い場所だと福岡まで行った。

そういえば、アメリカから帰って来て、しばらくしたら、自分はだんだんと他のバンドを手伝う機会も増えていった。
カウンターアタックの先輩バンドの陽が東狂アルゴリズムと名を改め、東京で活動していたのだが、ドラマーが脱退するということで、手伝うことになった。
また、同じスタジオを使っていた元ザ・マス・ミサイルの竹村忠臣と、どこでもドアーズというドラムユニットを組むことにもなった。

カウンターアタックの頃、自分は曲は作れなかったが、東京に来る少し前くらいから、作詞作曲ができるようになり、ドラマーとして活動しながらも、自分の思ってることを少しずつではあるが形にできるようになっていった。

日々、通うスタジオのほとんどが吉祥寺か高円寺だった。今も変わらずその辺りにいるのだけど、街を歩いているといろんな人の顔が浮かぶ。

池袋の電気屋のおじさんと彼の現役時代の曲を演奏しに名古屋まで行ったこと。スネアドラムを持っていたら、突然話しかけてきたタクシー運転手に、一緒にスタジオに入ってくれと言われ、そこで聞かされた古いロックンロールのようなオリジナル曲。新進気鋭といった感じのピアノ弾きの女性シンガーソングライターにスカウトされ、何度かライブをするも、バンマスが恐くて次第に参加しなくなったこと。セッションバーで知り合った、ひたすら自分の目を見つめ続けながら(これには困った)演奏してくるベーシスト。地下のスタジオの店番をしながら空いてる時間を見つけてはキース・ジャレットの譜面と睨めっこをしているピアニスト。

みんな音を鳴らしたいんだなと思った。上京してからの四年ほどの間に、多くの人の姿を見てきたことが、自分にとっての大きな財産になっているのだろうなと思う。

しかし、生活はずっときびしかった。というよりかは音楽活動以外でお金を使う余裕がなかった。最後のバイトは焼肉屋で、幸運なことに音楽好きの店長に巡り会え、それもあり3年ほど続いた。アルバイトの高校生大学生達からしたら、自分はいつもキッチンの奥にいる古株の岡山さんといった感じで、仲良くはしていたが、バイト仲間での飲み会には一度も参加したことがなかった。
そのくせ、バイト終わりは大体、喫茶店で本を読んだり、歌詞を書いたりで「そこは惜しまないんだね」と可笑しがられたりしていた。
最終的には店長に「いいから来い、おごってやる」と半分怒られるような形で一度だけ参加したのだった。

バンドの界隈では、自分はずっと年下だったけど、バイト先では、自分は一番年上で、なおかつみんな大学に行っているので、全然話についていけなかった。
多分、それもあり自分はそういうところから遠のいていたのだろう。そのせいか、いまだに大学とかいったものには何かしらコンプレックスがある。

バンド活動というものを始めて大体10年くらい経っていたが、バンドで何か儲けが出たという経験が全くなかった。遠征が続くとバイトに入れず、家賃などどうにもならない時は、実家に仕送りをしてもらったりもしていたが、弟が東京の大学に入ることが決まり、両親も学費などのやりくりで大変そうで、いい加減、独り立ちしないとなという感じになってきていた。音楽はしたいが生活できないとなと話にならないよなと。

結果、自分は当時ドラマーを募集していたSTANCE PUNKSというバンドのオーディションを受けることにした。自分の知ってるバンドシーンで最も有名なバンドの1つであったし、少しでも、大きな舞台でドラムを叩くようにしていったほうがいいのではないかと、その時は思ったのだった。

今にして思うと、TEAM VERYSと両立して、やっていけばよかったんじゃないかと思うのだけど、その頃のバンドマンの風潮も、何となく掛け持ちというものが、今よりも、ご法度だったように思う。剛さんと大輔さんに、STANCE PUNKSの話をし、「そうか」と聞いてくれたものの、やっぱり何かしら腑に落ちない空気がずっとあった。それでもSOUL CIRCLEの頃から、もっと遡れば高校生の時から、2人は自分のことを知ってくれており、(自分も2人のことを尊敬していた)何だかんだで突き放したりはしないでいてくれた。

そういった流れで、どこかはっきりしない状況のままだったが、TEAM VERYSは、2ndアルバムのレコーディングを開始することになった。全15曲の「WORLD IN VAIN」という作品で、夏から秋にかけて制作した。パンクの流れを汲んでいた今までのサウンドから脱却し、ずっとやりたいと思っていたヘヴィーなサウンドにようやく到達できた記念碑的作品だった。

自分は、この作品で5曲ほど作詞作曲しているのだけど、この頃から、こういう歌詞を書きたいというイメージができるようになってきていた。
ドラム面でも自分はこれ以降も、いろんな作品を作り続けているのだが、この作品を作っていた頃のような手応えというのは、いまだになかなか越えることができずに気がする。ソロ作品とはまた違う、バンドでしかなし得ない雰囲気、全体の流れ、音の重み、みたいなものがこのアルバムにはあると思っている。

9月にレコ発を行い、そこから、全国ツアーに出た。TEAM VERYSのライブと並行して、STANCE PUNKSもサポートメンバーという形でライブを行うようになっていた。自分は結局どうすればいいのか答えは出ていないままだったが演奏はちゃんと続けた。目の前のことをひとつずつ丁寧にやっていくしかないなと考えるようになっていたように思う。そんな具合で過ごしていたある日、知り合いのバンドマンから「andymoriというバンドがドラムを探していて、岡山君を紹介してもいいか」と話をされたのだった。

SOUL CIRCLE 「SOUL CIRCLE」
2006年9月発売

1.Say Hello
2.飛行青年
3.五月雨
4.MMC
5.ビーチクルーザー
6.Say Goodbye

TEAM VERYS 「Demo CD」
2008年発売

1.あかいクツ
2.しろとクロ
3.38
4.風に便り

TEAM VERYS 「WONDER EP」
2009年2月23日発売

1.Who are you?
2.Let’s go party!
3.East!!
4.Lonely boy!?

TEAM VERYS 「TEAM WONDERFUL」
RNCC-1025 2009年4月15日発売

1.B.O.Y
2.ケモノミチ
3.チェーン
4.ロンリーマン
5.HIGHWAY
6.ヴィンセントのヒマワリ
7.風に便り
8.38
9.しろとクロ
10.旅人の歌
11.田舎
12.LIFE

TEAM VERYS 「YOU ARE THE PUNK」
2010年1月16日発売

1.You are the PUNK
2.マルチの女
3.ビスタライト
4.蝶になって
5.NO RAIN NO RAINBOW

TEAM VERYS 「WORLD IN VAIN」
KIDS-1003 2010年9月19日発売

1.苛立ツ太陽
2.happyend sadman blues
3.ミタイミタイ
4.PLAY #1
5.スーパーノヴァ
6.World in Vain
7.後手9四歩
8.追憶ノ街
9.けもの道
10.who are you
11.ハローグッバイ
12.たった
13.ロンリーウーマン
14.はい、あげる
15.大吟醸〜ヨイノツキ〜

東狂アルゴリズム 「罪と罰と現実と偽善と本質と・・・あとなんだっけ?」
STEP UP RECORDS URCS-122
2009年7月22日発売

1.インチキランチキ創世記
2.のらりクラリと
3.ENTER.ENTER.ENTER.
4.誘惑 U.F.O~桃色屋敷から誘ってアタシを~
5.EASY ライヤー
6.ブロードウェイに首ったけ
7.エキセントリッカー

どこでもドアーズ「LIVE DVD」
2009年9月発売

1.三つ割り
2.AOのA
3.伊達男
4.ラティーン

TEAM VERYS 「ビスタライト」lyric video


RELEASE INFORMATION

The Unforgettable Flame (LP)
岡山健二

2024.03.20 Release
monchént records

Price: 4,500 yen (tax in)
Format: LP

★ブックレットに書き下ろしライナーノーツ掲載
★ディスクユニオン&DIW stores予約特典:
 オリジナル帯

Track List
Side A.
01. intro
02. 海辺で
03. 名もなき旅 

Side B.
01. あのビーチの向こうに空が広がってる
02. 軒下
03. 永遠 
04. My Darling

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