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ディスクユニオンアルバイトからRUDE BONES加入、そして膠原病との闘いとバンド活動 CHIBAMATTの近況

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●自己紹介がてらRUDE BONESに入ったきっかけを教えてくれる?

C:ベースのチバマットです。高校卒業して少しプラプラしてたんですけど、19歳でディスクユニオンに入りまして。93,94年頃かな?本部のインディーズ・パンク担当で働き始めました。その時に大塚さんとも面接したんですよ。それで入って1,2年ぐらい経ってかな、当時THE RYDERSとかをリリースしていたBLACK HOLEってレーベルをディスクユニオンでやっていて、それに大塚さん関わっていたんですが、ある時「自分のレーベルをやりたいんだよね、このバンドリリースしようかなと思って」と聴かせてくれたのが、RUDE BONESのライブテープだったんですよ。

●ファランクスできる前からチバちゃんいたんだね。

C:BLACK HOLE時代から一緒にやってますよ(笑)

そっか、もう全然記憶が無くなってきちゃったからさ(笑)

C:その頃のこと凄い憶えているんですよね、自分にとって人生の分岐点でしたから。それで、THE MIGHTY MIGHTY BOSSTONESとかSKANKIN’PICKLEとか海外のスカコア、スカパンクも好きでよく聴いてたんですが、そのRUDE BONESのライブテープを聴いた時は、日本にもこんなバンドいるんだってちょっとビックリしたんですよね。それで大塚さんにライブ連れて行ってもらうようになったんですよ。

●その時まだリリース決まってない時かな?

C:決まるかどうかって時期だったと思います。後から知りましたけど、SCAFULL KINGのタガミくんがRUDE BONESを大塚さんに紹介したと聞きましたね。

それでリリースが決まって、何回かライブに行かしてもらって、物販を手伝ったりしたんですよ。最初は確か下北の CLUB251だったかな。それで、1stアルバムのReality〜をリリースしてから、ほんとすぐにベースのキクリンが抜けるっていう話を大塚さんから聞いたんですよ、仕事中に。当時、僕は遊び程度でギターを少しやってたんですが、そしたら「ギター弾けるんだったらチバちゃんベース弾けんじゃないの?」って大塚さんが言い出して(笑)

元々ベースじゃなかったんだっけ?

C:ギターをやってたんですよ、中学生の時からですね。でも本当にちょっと弾けるくらいで。それで、僕の地元が東京の保谷ってところで。RUDE BONESのみんなは武蔵関とか上石神井あたりの練馬で家も近所だし、年齢もみんな一個上で年も近いし、いいんじゃないの?みたいな感じで、すごい適当な感じで言ってきて(笑)


そうだっけ?(笑)

C:そうですよ(笑)当時バンドはすごいやりたいなとは思ってたんですよね。大塚さんにも社員にならないかって話も言われてたけど、当時ユニオンってバンドをやりながら社員ってダメだったじゃないですか。

●ダメだったね昔は。

C:それで、当時は携帯電話なんて無いから、オオカワくんから家に電話かかってきたんですよ(笑)「大塚さんからなんか聞いてる?ちょっとベースやってみない?」って言われて。それで電話切った後すぐに大川くんの実家近くの居酒屋まで行って(笑)それで話をしてたら、他のメンバーだったり、オオカワくんたちの地元の友達とかワチャワチャみんな集まってくるんですよ(笑)もう本当その場で決まったようなノリだったんじゃないかな、じゃあやってみようかみたいな感じになって。

●てっきりなんかオオカワくんとかヒロシくんと仲良くなってから、入ったのかと思ってたけど違うんだ?

C:いや、その時はまだ全然でしたね。大塚さんが僕の人生をすべて変えたんですよ(笑)

●そっか、すみませんでした(笑)

●最初のライブはいつ、どこだった?

C:最初のライブがいきなりクラブチッタだったんです、GREEN GIANTのモリヤスくんのMORIYASU NIGHTってイベント、96年の7月ですね。

SUPER STUPID,FRUITY,HUSKING BEEとか出てました。NO POETのツアーフライヤーの写真はこの時チッタの楽屋で撮りましたね。

C:その翌月の8月にすぐNO POETのレコーディングをして、その1週間後とかにSUPER STUPIDと東名阪、北海道、仙台のDISCO TOURっていうのをやって。

●すごいね。

C:それで、NO POETがリリースされてレコ発ツアーもして、終わったら2ndアルバムのレコーディングを開始して。そのレコーディングの間にNYでMOON SKA RECORDSのSHOWCASEに出れるぞって話が出てきて。じゃあちょっと一旦レコーディング中断してNY行こうかって。加入して半年ちょっとの間の出来事ですからね、超目まぐるしかった(笑)

●そこからもう30年以上経って、最初からルード見て、どうですか

C:基本は何も変わらないなっていうのはありますね。実際の変化はありますけど、自分らがやるスタイル、基本にスカ、スカコアがあって、そこにレゲエだったりパンクだったりハードコアだったり、+αを加えてやれるのがルードボーンズだと思ってます。

ヒロシくんがこの間言ってたんですけど、「オオカワの歌詞は昔も今もあんま内容が変わんないな」って。今50代になって、人生いろいろ経験してくるから、20 代の時と比べて考え方も変わってくるところはあると思うんですけど、基本的なところがやっぱり変わらないから、昔の曲だって歌うこと、バンドで演奏できるというのがあるんじゃないかなと。

●ああ、なるほどね。ずっとやってきて、一番印象に残ってるライブって何?

C:アメリカもNY、LA、BOSTON,それからEUROツアーもしたから結構いっぱいあるんですけど、やっぱり一番というなら、さっきも話した初めてNY行ってライブやった時ですかね。RUDE BONESに加入すると同時にベースを始めて半年ちょっとで、NYでライブをやるなんて想像すらできないじゃないですか(笑) しかもそのNY行きが人生初の飛行機だったし(笑)

●仕事は何をやってるか差し支えなければ教えて


C:IT 企業で働いていて、企業などに対してITの教育関連の事業をやってます。

●病気の方はどう?

C:僕の病気は昨年亡くなってしまった八代亜紀さんと全く同じ病気なんです。皮膚筋炎っていう難病指定の膠原病の一つで、日本でも発症してる人は少ないみたいです。合併症で間質性肺炎を起こすのがこの病気の特徴の一つですが、八代亜紀さんはその肺炎が原因で発症してから四ヶ月で亡くなってしまいました。僕はなんとかそこを乗り越えることができたのですが、その後の治療とかもちょっと大変ですね。5年後生存率も決して高くはない病気で、ちょうど今発症して5年経ちますが、なんとかライブもやれてます。

●ライブもしばらく空いてる時期もあったりとかね。

C:去年もまた病気が再燃しちゃって、免疫不全の病気なので抗がん剤治療が有効的なんですけど、半年間かけて抗がん剤治療もまたやりました。ただ、ライブも決まっていたのもあるし、ライブをやりたいという気持ちもあるので、抗がん剤を打った翌日にクラブチッタのHoppin’&Steppin’でライブやったりもしました(笑)副作用でめちゃくちゃ気持ち悪りぃと思いながら(笑)

●大変だね。


C:元気そうに見えるとは思うけど、割りと結構大変です(笑)でも、楽観的な性格なのと、とにかくバンドはやりたいっていう気持ちが昔から変わらないから、バンドをやり続けるのは苦ではないですね。

●バンドと仕事と病気とバランス難しいと思うけど、なにか工夫してることとかあるの?

C:日々の生活はすごい改めるようになりましたね。病気発症と同時に酒もタバコもやめましたし。玄米炊いてとか魚食べてとか食事も気をつけるようになりました。

●えー、すごいね。

C:もう50歳も超えてきて、本当いつまでみんなでバンドやれるかもわかんないし。この年齢で続けていけるのは、なかなかな奇跡だと思って。

●何歳ぐらいまでやりそう?

C:そうですね、身体が動く限りはみんなやるんじゃないかなって僕は信じてるんですけど(笑)とにかく今を頑張ろうと思ってベースの練習も毎日1時間ぐらいは日々やるようにしてます。とにかくもう前向きなんですよ、いつまでできるかわかんないから。


素晴らしいですね。

C:そういう意識を20 代の時から考えることができれば良かったのになっていう感じです(笑)


じゃあ、ベースプレーとしては今が一番いいと。


C:ああ、もしかしたら一番いいかもしれないですね。あとは常に今が一番いいと思ってやっぱりやるじゃないですか、バンドって。あの頃が良かったとかあると思うんです、自分も好きなバンドに対してそう思う事もよくありますし。でもやってる側からすると、自分たちは今が一番いいと思っていつもやってますね。

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