ブラック・メタルに日本神話の世界観を取り入れた「黄泉メタル」を標榜し、1990年代中後期に日本のアンダーグラウンド・エクストリーム・メタル界に強烈なインパクトを残した凶音(まがね)。彼らの事実上の最後となった2ndアルバム『黄泉呪詞 (Beginning at the End)』の発売記念ライブの会場はパンパンとなり、むせ返るような熱気だったのを今も懐かしく思い出す。今回、凶音の1stアルバム『MORTES SALTANTES』(ボーナスとして2曲入りEP『MAGANE ATTACK』を追加)、2ndアルバム『黄泉呪詞 (Beginning at the End)』の再発を記念してリーダーの黄泉槌(ds)と補足的に鎮毘古(vo)にメールで凶音の前身バンドMORTES SALTANTESも含めてインタビューを行った。今ここに、黄泉人が再び舞い上がる!
PS:MORTES SALTANTES時代か凶音時代か忘れてしまいましたが、吉祥寺での打ち上げの「事件」は私にとって忘れられない良い思い出です(笑)。
Text by 別府“Veppy”伸朗
編集:汐澤(OTOTSU)
–凶音の前身であるMORTES SALTANTESは元々某大学のサークルでメンバーが出会ったことで結成されたと聞いています。黄泉槌(Yomituti)さんが曲を作って来たのを沼琴(Nugoto)さんに聴かせたのが切っ掛けという話も本当でしょうか?
黄泉槌:1993年にFOETUS FATALというデス・メタル・バンドを久二雄(Kuniwo/g)と一緒に始めたのが最初でした。当時からオリジナル曲も2曲くらいあったんですが、まだライブハウスでの演奏やデモの録音ができる水準ではなかったので、音源とかは何も残っていません。その1年後、1994年に鎮毘古(Yatsufiko/vo)とYuko(b)が加わってMORTES SALTANTESを結成しました。そこに河津毘古(Kafadufiko/g)も加わってツインギター体制になりました。すっかり忘れてましたが、当時は鎮毘古がキーボードも弾いてたんですよねぇ。懐かしい。「沼琴に曲を聴かせた」というのはMORTES SALTANTES結成時ではなく、河津毘古が脱退して沼琴がギターとして加入するきっかけだったので1995年頃だと思います。
鎮毘古:ちなみに河津毘古は脱退後、名義を東虎(Touko)に改め、身殺(みそぎ)というプロジェクトで活動していました。そちらでも黄泉槌がドラムを叩いてます。
–MORTES SALTANTESの由来は何だったのでしょうか?
黄泉槌:ラテン語で「死人が舞う」という程度の意味でした。後に「黄泉人舞」のコンセプトに繋がるんですが、結成当初はまだ普通のノルウェー調のブラック・メタルを意識していました。1996年頃から徐々にコンセプトが醸成されて1998年の3rd デモ・テープ『CALL FROM YOMI』で一通りコンセプトが完成したことになります。
–結成当初影響を受けたバンドは何でしたか?
黄泉槌:先ほどお話ししたMORTES SALTANTESの更に前身のバンドはデス・メタルで、ENTOMBED1stとかに影響を受けてました。MORTES SALTANTESの結成当初は、自分としてはMAYHEMとSATYRICONの影響が一番大きかったです。黄泉槌という名前も(MAYHEMのドラマーの)Hellhammerへの憧れから付けました。 鎮毘古はIMMORTALだったよね?
鎮毘古:そうですね、自分はIMMORTALの『PURE HOLOCAUST』とDARKTHRONEの『A BLAZE IN THE NORTHERN SKY』、SABBATの『ENVENOM』に心酔していました。MORTES SALTANTESを結成したばかりの頃は、BOLT THROWERの「WAR MASTER」とかMY DYING BRIDEの「SEAR ME」なんかもコピーしてましたが、オリジナル曲は当初からブラック・メタルに焦点を絞っていました。
–MORTES SALTANTESが結成された1994年当時、ブラック・メタルは今よりもかなりマイナーなメタルのサブ・ジャンルで、音楽性よりもアンチキリスト教といった面が強調されていた感が私にはありました。 海外よりもキリスト教だけでなく宗教に対して縁遠い日本でブラック・メタルが根付くのかなというのが当時の個人的な印象でした。日本でブラック・メタルをプレイすることについて当時の思い等あれば語ってください。
黄泉槌:元々サタニックなオカルトホラーとかも大好きだったので、当時はブラック・メタルのサタニズムにも全然違和感はありませんでした。 とにかくMAYHEMの『DE MYSTERIIS DOM SATHANAS 』での全編ブラストの勢いに感銘を受けて、当時まだ新しいジャンルだったからこそ、自分たちにも何か新しいことができそうな気持ちがありました。1st デモ・テープに収録した「Dawn of the Dark」には「よし、これからブラック・メタル (dark) を始める (dawn) ぞ」という想いも込めていました。
–今も決して多いとは言えませんが日本でブラック・メタルをプレイするバンドは本当に少なく、MORTES SALTANTESはFUNERAL RITESやAMDUSCIASといったバンドとよく企画をやっていた覚えがあります。彼らとの交流の切っ掛けと当時のシーンについて教えてください。
黄泉槌:AMDUSCIASとの切っ掛けについては鎮毘古に話してもらう方がいいかな。FUNERAL RITESと知り合った切っ掛けですが、僕らとは別の某大学の学園祭で出会いました。鎮毘古と一緒にチラシを持って、メタルをやってそうなサークルを探していたら、そこにBATHORYのTシャツを着たFUNERAL RITES のKentaro(b/vo)がいたんです(笑)。当時、ブラック・メタルというシーン自体が日本には存在しなかったので「何とかシーンを作りたい」という思いもありましたね。その一方で、ブラック・メタルだけで固まろうという気持ちは全然なくて、デス・メタルやグラインドコアのバンドとも仲良くライブしてましたね。最初にライブ企画に呼んでくれたのはD.I.Eの関さんだったことは今でも懐かしく憶えてます。
鎮毘古:国内のブラック・メタルのバンド数がまだ少なかったので、ライブハウスに行っても「ブラック・メタルの企画」はほとんど見かけませんでした。それで最初は「いろんな大学のバンド・サークルに行って、ブラック・メタルのバンドを探そう」と考えたんです。SNSなんてまだ存在しない時代だったので、黄泉槌と2人で紙のチラシを各大学のサークル棟に貼って歩きました。その結果、FUNERAL RITESと遭遇したということです。 それとは別に、自分のバイト先の近所にディスクユニオンがあって、そこに通っているうちに親しくなった店員さんがAMDUSCIASのRyuichiさんでした。お互いにブラック・メタルのバンドをやっていることが分かって、一緒にライブやろうよという話になり、さらに彼はSIGHのMiraiさんやSABBATのGezolさんと繋がりがあったので、『BLACK METAL YAKUZA』企画に結びついていきました。

–ブラック・メタルの認知度が低かった当時のシーンでの苦労、良い点、悪い点。名前を出したバンド以外に交流あったバンドやイベントについて、思い出も含め語ってください。
黄泉槌:ブラック・メタルの認知度が低いこと自体で何か困ったことはなかったように思います。対バンがデス・メタルでもグライドコアでも、楽しく演奏してましたよ。 それでも、ブラック・メタルをテーマにした企画は何とかやりたいなと考えて企画したのが『BLACK METAL YAKUZA』でしたね。 『BLACK METAL YAKUZA』以外の企画も含めて、色々なバンドとご一緒させてもらいました。詳しくは鎮毘古に譲ります。
鎮毘古:『BLACK METAL YAKUZA』企画は、タイトルはABIGAILのキャッチコピーからいただき、実際の運営はRyuichiさんに相談しながら我々がやっていました。 とにかくブラック・メタルのバンド数が少ないので、東京のブラック、大阪のブラック、みたいに都市ごとでは企画が成立しないんです。なので自然と横に繋がっていって、三重のSABBAT、大阪のCATAPLEXY、東京のABIGAILといった先輩方や、名古屋のINFERNAL NECROMANCY、大阪のETERNAL FOREST等の同世代バンドと東名阪にお互いを呼び合って企画を組んだりしていました。『BLACK METAL YAKUZA』企画は、そうした交流の場になっていたと思います。 ブラック・メタル以外では、先述のD.I.E関さんとのご縁から肉奴隷の岡田さんと繋がり、『殺戮雑音部隊』企画に呼んでいただけるようになったのが大きかったですね。あそこでグラインド、ノイズ、デス・メタル等、様々なジャンルのアンダーグラウンド・バンドと交流できました。Bloodbath Recordsの木村君や、いろんなライブハウスとのお付き合いも、殺戮雑音部隊のおかげでできたと思います。 そうして凶音の自主企画『血祭』を組めるようになったのは、活動の後半になってからだったかと。『血祭』はブラック・メタルに限定せず、自分らがカッコいいと思っている多様なバンドをお呼びしました。 ブラック・メタルのシーンが成立していなかったので、他ジャンルの企画に出入りすることになり、結果的にブラック・メタル以外/ヘヴィ・メタル以外のミュージシャンやファンの方々に発見してもらえたことは、我々にとってはプラスになっていたと思います。


–凶音へ改名前にリリースしたMORTES SALTANTESの3本目のデモ・テープ『CALL FROM YOMI』で歌詞や音階に和の要素を取り入れましたがその切っ掛けは何だったのですか?
黄泉槌:ノルウェーのバンドが次々とヴァイキング・メタルに変わっていったのが切っ掛けですね。サタニズムならまだしも、ヴァイキングを日本人が真似したところで何のメッセージにもならない。「彼らが北欧神話に原点回帰するなら我々は日本神話に原点回帰しよう」というのが3rdデモの着想でした。
–『CALL FROM YOMI』をリリースして直ぐに凶音に改名していますが、これはどうしてだったのでしょう?そして凶音というバンド名にした由来も教えてください。
黄泉槌:日本神話の世界を打ち出しておきながらバンド名がラテン語のままだと違和感があったので、1stアルバムを出す前のタイミングで改名しました。 禍々(まがまが)しい音と禍津神(まがつかみ)を兼ねていますが、「ロゴにするには禍より凶の方がストレートでインパクトがあるよね」ということで凶音になりました。
鎮毘古:古語で鉄のことを「まがね(真金)」と言うので、「トゥルー・メタルな感じでMAGANEっていうバンド名どう?」と持っていった記憶があります。そしたら黄泉槌が「いいね、禍々しい音ね!」と言い出して。違うけどそっちのほうがカッコいいなと思い、漢字は凶を選んだんじゃなかったかな…。
–MORTES SALTANTESから凶音になった近辺でヴォーカリストの鎮毘古さんが百目メイクに変わったのも話題になりました。この変化は何故だったのですか?
鎮毘古:ハゲてきたので長髪を切り、スキンヘッドにしたのが切っ掛けです。その時に音楽性をちょうど変えたからメイクも変えようと思い、海外のコープス・ペイントとはぜんぜん違う文脈のデザインにしたいなと。あとせっかくスキンヘッドにしたから顔の前面だけでなく、頭部全体を使ったメイクを考えました。直接的なヒントは、妖怪の百目ではなく、特撮番組『仮面ライダーストロンガー』に登場する敵役の百目タイタンから得ています。
–音楽性が変化したと同時だったか記憶が曖昧なのですが、自らの音楽性を「YOMI METAL/黄泉メタル」と呼んでいたと記憶しています。何故「黄泉メタル」としたのか、その切っ掛けや音楽性について考えていることを教えてください。
黄泉槌:これもノルウェー勢がヴァイキング・メタルやペイガン・メタルに変わったことに対する自らの音楽への定義づけです。 3rdデモの音楽性はもはや一般的な意味でのブラック・メタルとは異なっていたので、自分で名づける必要がありました。 「黄泉人舞」がある意味で僕らの音楽の定義みたいなものなので、そこから黄泉メタルです。
–凶音に改名して直ぐに1stアルバム『MORTES SALTANTES』をリリースしましたが、これはTESTAMENTの1stアルバムと同じ理由でアルバムタイトルを『MORTES SALTANTES』にしたのでしょうか?
黄泉槌:これも鎮毘古から答えてもらう方がいいかな。
鎮毘古:TESTAMENTやFORBBIDENがデモ時代のバンド名を1stアルバムの題名に冠したことが頭にあったのは事実です。もうひとつの理由として、MORTES SALTANTESの名前とデモ音源が海外にけっこう出回っていたことがあります。ファンジンのインタビューや、デモのディストリビューションによってMORTES SALTANTESを気に入ってくれた海外のマニアが「凶音」という漢字だけ見ても絶対に同一バンドだと気づいてもらえないので、題名にMortes Saltantesという語を残しました。
–まだ和の要素を出す前のMORTES SALTANTESの名曲と知られていた「Into The Fire」を1stアルバムに入れたのは?当時、この曲は大好きでしたが凶音になってコンセプトとして収録難しいかもと思っていたので嬉しかったです。
黄泉槌:ありがとうございます。いや、「Into the Fire」は僕らの中では全然アリで、凶音改名後もよくライブで演奏してましたよ。
–この1stアルバムがリリースされた時にレーベルのLoud Hatredのことも話題になったと思います。 確かニュースクール系のハードコア・レーベルのサブでしたよね?彼らとの契約の切っ掛けについて教えてください。
黄泉槌:これも鎮毘古から答えてもらう方がいいかな。
鎮毘古:ハードコア・レーベルLaboratory records傘下にあったRadical Eastの西岡さんが我々のライブを何回か見た上で、アルバムを出さないかと声をかけてくださいました。ブラック・メタルとはまったく関連のないレーベルだったので、驚いたのを覚えています。それで音楽性がこれまでのレーベル作品とは異なるということで、新しく立てたサブレーベルがLoud Hatredでした。我々の作品の後にASSAULT(高円寺BOYの大倉さんが在籍されていたバンド)の7インチが1枚、Loud Hatredからリリースされています。
–今回残念ながらこの1stアルバムはオリジナルのアートワークではないのですが、オリジナルの桜の花は誰のアイデアだったのでしょうか?日本らしさと禍々しさがミックスされ大好きだったのですが。
黄泉槌:7曲目の「忌つ木」が桜の歌なので、夜桜にしようと決めました。
–2ndアルバム『黄泉呪詞 (Beginning at the End)』は1stアルバム『MORTES SALTANTES』の音楽性を更に発展させ、和的な要素を更に強めプログレッシブな面も打ち出しながらも勢いは全く削がれていない傑作だと思います。1stアルバムから2ndアルバムへ音楽性が進化したのは何が要因だったと思いますか?
黄泉槌:その辺りは(今入手できるかわかりませんが)「KABBALA」というメタルファンジンの35号(2004 年春号) で詳しく取り上げていただきました。 前半のいわゆるA面と、後半のいわゆるB面でそれぞれ1stからの違いを打ち出していました。 前半では、黄泉槌以外のメンバーが積極的に作曲に関わり、黄泉槌はアレンジに徹したこと。これがその後のZOMBIE RITUALも含めて、新しい展開に繋がりました。 後半では、黄泉メタルの自分なりの集大成として陰陽五行思想と雅楽の音楽理論を採り入れました。1stの曲を説話とするなら、それらの説話が繰り返し語られ編纂されて神話になる過程を、古事記になぞらえた木火金水土の組曲として2ndアルバムでは描出しました。
–2ndアルバム『黄泉呪詞 (Beginning at the End)』のオリジナルは台湾のTRA Musicからリリースされていますが、何が切っ掛けでリリースされることになったのですか? 凶音はChthonicと初期から交流がありますが、それと関係していますか?
黄泉槌:2000年に台湾遠征したのが切っ掛けでChthonicとは親しくさせていただきました。TRAはChthonicのメンバーが運営していたレーベルです。
–凶音はChthonicを最初に日本に招聘しました。台湾のフェスにも凶音は出演しています。彼らとの交流の切っ掛けや彼らとの思い出についてあったら教えてください。
黄泉槌:そうか、Chthonicを最初に日本に招聘したのは僕らだったんですね!!!ちょっと感慨深いです。 あの頃は僕らも全然受け入れ態勢ができていないままの手作り企画で、体制が整っていた台湾の企画に比べると、Chthonicのメンバーには結構負担をかけたなぁと思います。 でも、思い出深いのは名古屋だったかな?Chthonicが差し入れで持ってきてくれた金門酒 (50度以上あるコウリャンの蒸留酒) を打ち上げ後の宿で飲んで泥酔して、翌日みんなひどい二日酔いでした笑。翌日、「I have headache, because of jinmenjiu」を連呼していた記憶があります(笑)。台湾の『FORMOZ ROCK FESTIVAL』に呼んでいただいたのは本当にありがたく、今でも良い思い出です。1,000人以上のお客さんの前で演奏したのはあれが最初で最後でした。そのフェスのトリのMEGADETHは台風で大幅に到着が遅れたんですけどね(笑)。Chthonicは凶音のことを心から応援してくれていて本当にありがたい存在でした。
–2ndアルバムの発売記念ライブを最後に凶音は活動を停止してしまいました。黄泉槌さんの体調問題により活動停止になったとのことですがこれは正しいでしょうか?
黄泉槌:当時、プレッシャーによる胸痛があったのは事実です。当時は診断できなかったのですが、その後10年以上たって冠攣縮の疑いがあると診断されました。ストレスやプレッシャーで冠動脈が一時的にキュッと収縮してしまい胸痛が出る症状です。 当時は原因もよくわからないまま、ブラストを叩き続けることやコンスタントにライブ活動を行うことに不安があったのは事実です。
–組曲「黄泉呪詞」には歌詞や曲のフレーズに自らのオマージュ的なものを散りばめていますが、これは活動停止を意識してのものだったのですか?
黄泉槌:いえ、当時は活動停止を意識していませんでした。むしろ「ここで一度集大成にして次のステージに向かいたい」という思いすらありました。
–1stアルバム、2ndアルバム共に改めて聴くと曲の細かい仕掛けとかアレンジとか気が付きますが、当時のライブでは荒々しさを打ち出していたと記憶しています。これは意図的だったのですよね?
黄泉槌:これも鎮毘古に話してもらうのがいいと思いますが、アルバムには参加していませんが当時のメンバーだった法輪 (Noliwa/b) の影響ですね。あれはあれで楽しいライブでした。
鎮毘古:後にDEATHCHURCHで活躍する法輪の演奏スタイルの影響もありましたし、『殺戮雑音部隊』企画で共演したグラインドコアやハードコアといったバンドのライブに共鳴した部分もあったと思います。棒立ちでカッチリ弾くより、ガムシャラに暴れ倒すライブのほうがかっこいいよねと。実際その方がお客さんも盛り上がってくれました。自分はシンフォとかメロブラを離れて、プリミティブ~WARブラックに傾倒していたことも影響していたと思います。
–1stアルバム、2ndアルバム共にINTESTINE BAALISMの角崎氏と作業していますが、彼との作業で印象に残っていることがあれば教えてください。
黄泉槌:やっぱり一緒に何度も対バンもしていて、凶音に対する理解もあったのが大きかったと思います。 「INCANTATIONみたいな音」と言えば、「よし、INCANTATIONより汚い音にしてやる!」と言って、凄い音を作ってくれました。当時はまだあまり普及していなかったハードディスク・レコーディングを早くから採り入れていたのも革新的でした。角崎さんにはその後の捜血鬼のアルバムでもお世話になり、伝統楽器の能管(能楽の笛)の録音もきちんとこなしていただきました。 あと、今だからこそのネタバレとしては、1st アルバムに収録されている「忌つ木」の終盤で角崎さんがベースを弾いてくれています。INTESTINE BAALISMがお好きな方はこの機会にぜひ耳を凝らしてみてください。
–今後1度でも良いから再活動の予定はないのでしょうか?それぞれの生活等もあるかと思いますが、今回の再発が一つの切っ掛けになるかと思います。メンバーともまだ交流があり、良好な関係のままだとも聞いています。2ndアルバム『黄泉呪詞 (Beginning at the End)』がリリースされて組曲“黄泉呪詞”が披露されていないことを残念に思っている当時のファンは今もいると思います。
黄泉槌:ありがとうございます。皆さんのお気持ちはとてもありがたいのですが、アスリート寿命をとうに過ぎました。凶音自体は復活できませんでしたが、凶音の活動休止後、黄泉槌としては捜血鬼でアルバムを1枚、身殺でアルバムを1枚残しています。身殺がラスト・アルバムになると共に、あの位が自分にとってのアスリート寿命でした。

–思い出に残っているライブとその理由を教えてください。
黄泉槌:MARDUKの初来日公演、台湾の『FORMOZ ROCK FESTIVAL』、凶音2ndアルバム発売記念/活動休止ライブ、活動休止後に捜血鬼名義で出演した台湾のライブでしょうか。MARDUK初来日の時は、自分がMARDUKを間近で見られるのも嬉しかったし、お客さんの熱気も凄かったのでいつにないテンションで演奏できたことを覚えています。身体が軽々と動いてあっという間にライブが終わってしまった様でした。台湾の『FORMOZ ROCK FESTIVAL』は先に述べたとおりです。 凶音の2ndアルバム発売記念/活動休止ライブも「KABBALA」の35号で詳しく取り上げていただきましたが、懐かしい人たちも来てくれて会場全体で凶音を温かくそして熱く送り出していただきました。 活動休止後、Chthonic, ZOMBIE RITUAL, 捜血鬼の3バンドが台湾でライブしたことがあります。当時はまだ捜血鬼の立上げ時期だったので、ちょっとしたゲスト・バンド扱いでした。Chthonicのメンバー のフレディとドリス との混成バンドといった形で捜血鬼としての新曲は1曲だけ演奏して、あとは凶音とSLAYERのカバーをほんの数曲だけやりました。凶音の「大蛇」の演奏の時に「これは俺の曲だから俺にやらせろ」と鎮毘古がゲスト出演して歌ってくれて嬉しかったです。
鎮毘古:自分はSABBATとCATAPLEXYと同じステージに立たせていただいたことですね。10代のリスナーだったころ、SABBATのアルバムとCATAPLEXYのデモ音源は聴きまくっていたので。 青山にあるCAYという会場で灰野敬二さんとMerzbowと対バンさせていただいたのも覚えてます。メタル以外のバンドと一緒にやる怖さと面白さ、両方が極まった感じで。 あとはやっぱり凶音のラスト・ライブ。遠方からもお客さんが詰めかけてくれて、1曲1曲、暴れて叫んで、泣いてる人もいて。あの光景は忘れられないですね。

–札幌のライブでオーガナイザーのリクエストがあってステージで火を噴いたらライブハウススタッフから怒られたライブがあったという話もありませんでしたか?
黄泉槌:これは鎮毘古よろしく。他にも火噴きトラブルはたくさんあったよね。飛行機に持ち込めないから事前に灯油を送る手間とか(笑)。
鎮毘古:怒られた時の火噴き写真が、デモ集『黄泉還り』のジャケに使われています(笑)。オーガナイザーのリクエストではなく、自分から「噴いていいですか?」と言いました。「いいよいいよ」ということで噴いたら、ハコのスタッフには怒られたという(笑)。あと、噴く時に灯油をステージにこぼしてしまって、次に出演するバンドのメンバーにも「滑ってライブがやりづらい」ということでめちゃくちゃ怒られました。完全にこちらが悪いのでひたすら謝りました。 灯油を口に含んで火を噴く練習を母校のキャンパスでやったのも、今では良い思い出です。

–歴代のメンバーそれぞれの人柄や印象、そして一言あればお願いします。
黄泉槌:ここからはシラフで答えにくいので、アルコール入ります(笑)。
最初にYuko (b)。いつもニコニコしていて本当に良い子だった。1st デモ・テープをリリースした後、突然脱退すると言い出して。その時に何か悩んでいる様子でした。自殺したと連絡を受けたのはその数年後でした。彼女の形見のベース、彼女から貰ったピアスはまだ僕の家に残っています。
河津毘古(=東虎/g)。2ndデモ・テープでギターを弾いてくれて、その後、彼が目指す目標のために脱退しました。脱退後に身殺を立ち上げて僕もドラムで加入することになりました。くっついたり離れたりしたけど、同じ志を持つ仲間の一人です。
神荒 (Kamala=Kentaro/b)。彼とはある意味で腐れ縁だったけど、よく飲んでよく話した。MORTES SALTANTESとFUNERAL RITESは兄弟のような存在で、2nd デモ・テープで結構良い感じのベースを弾いてくれました。
碧血 (Miduti/Ryuichi/b)。AMDUSCIASは結成当初の僕らにとっては憧れの存在で、目標でもありました。その碧血さんが仲間に入ってくれた時は本当に嬉しかった。メイクした顔より素顔の方が怖いけど(笑)、実はとても陽気で良い人でした。INTESTINE BAALISMの角崎さんと親しくなれたのも、碧血さんのおかげです。
久仁雄(Kuniwo/g)。MORTES SALTANTESの更に前身であるFORTUS FATAL以来、音楽性は違うにも関わらず、ずっとずっと支えてくれた恩人。凶音脱退後、自らも複数のバンドを経験した後に「お前のドラムが一番弾きやすかったよ」と言ってくれた時は嬉しかった。
月鬼(Tukuoni/g)。元々DECAPITATIONのヴォーカリストで、誘ったら二つ返事でOKしてくれました。初回のリハーサルでほぼ完璧な演奏だったこだわり派。2ndアルバムに収録されている「Life Eternal, Torture Eternal”」は、midiファイルを何往復もさせた彼と黄泉槌の合作です。あの曲、実はスタジオ練習では2ビート・バージョンというのがあって、2ビートにするとめっちゃスウェディッシュ・デス・メタルになります。2ビート・バージョンを音源に残せなかったのはちと心残り…かも? ここで詳しくは話せませんが、彼とは仕事で今も大切なパートナーです。
忌仕女(Itukime/key)。いつも手持ち無沙汰でごめんなさい(笑)。凶音はキーボードが入らないスラッシュな曲もあるので、出番が少なくて申し訳なかった。でも、なおちん(=忌仕女)の持ち前の明るさに何度となく救われました。
沼琴(g)。凶音に入る前から凶音のことを大好きでいてくれて、加入後も中心メンバーとして支えてくれた本当に大切な仲間。そういえば、彼のデビューは2nd デモ・テープに収録されている「A Myth」のキーボード 演奏 でした。懐かしいなぁ。今もZOMBIE RITUALのメンバーAlcoholとして活躍している姿を頼もしく思っています。
幽蛇(Yuda/b)。沼琴と同じく凶音に入る前から凶音のことを大好きでいてくれて、入った後も中心メンバーとして支えてくれた本当に大切な仲間。その前に在籍していたFUNERAL RITESではギタリストだったのに凶音の為にベーシストに転向してくれてそのまますっかり定着しちゃったね。彼が両腕を振り上げてるライブ写真があって、「お前全然弾いてねえじゃん!」と笑いあったのを思い出します。
鎮毘古(vo)。一番照れくさいな(笑)。ぶっちゃけ、時々ムカつくけど、絶対に信頼できる男。何度もぶつかり合ったけど、そのぶつかり合いの中で凶音のスタイルが出来上がったと思う。照れくさいけど感謝してるよ。
鎮毘古:コンセプトも曲も緻密に組み上げる黄泉槌が、歌詞を任せてくれたのは嬉しかったですね。日本神話を基盤にするということだけ2人で共有して、それをどういうストーリーに仕立てるかは、こちらの裁量に任せてくれた。「大陸の思想も、東南アジア~オセアニアの文化も入り混じった日本神話の世界観を、現代の日本語と英語でキャッチーなメタルの歌詞にする」という我ながら無茶苦茶な試みを許容してくれた寛大なリーダーでした。
–最後に今回の再発を喜んでくれる昔からのファン、そして初めて凶音の音に触れる人にメッセージをお願いします。
黄泉槌:20年も経った今でも凶音を聴きたいと思ってくれる皆さん、今初めて興味を持ってくれた皆さん、その皆さん全てに感謝しかありません。 再発にあたり、レーベルからボーナストラックの相談を受けました。もちろん2001年にリリースしたEP『MAGANE ATTACK』を入れるわけですが、作曲者の意図として1stアルバムに2曲とも入れて、2ndアルバムにはボーナストラックを入れないことをお願いしました。「リリースした順番通りに聴いて欲しい」というのもありますが、2ndアルバムの組曲は循環構成(最後の曲の最終フレーズが最初の曲につながる構成)になっています。日本神話の循環構造(春夏秋冬、生から死そして再生)をじっくり味わって欲しくて2ndアルバムにはあえてボーナストラックを入れませんでした。組曲の余韻を最後に味わっていただきたいと思います。
Release Information

黄泉人舞 – MORTES SALTANTES
凶音
BTH112

黄泉呪詞 – BEGINNING AT THE END
凶音
BTH113

