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スライダーズ、エコーズ、ブルーハーツ…ジャスト・ア・ビートショウを立ち上げいまだ現役のロックンローヤー・島キクジロウが80年代ビートシーンを語り尽くす Part. 1

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19年ぶりの新作をリリースしたパンクバンドTHE JUMPS。パンデミック、憲法、反戦、自由など様々なテーマをレゲエ、ジャズ、ロカビリー、R&Bなどの音楽的要素を取り入れたレベルミュージックとともに叩きつけるリアルなサウンドはあらゆる年代の音楽ファンからのリスペクトを一身に集めている。
そんなTHE JUMPSといえばブルーハーツやレピッシュらとともに主宰してきたシリーズギグ “ジャスト・ア・ビートショウ”であり、伝説的な夜を数多く作ってきたTHE JUMPS首謀者、島キクジロウ(島掬次郎)に80年代ビートシーンの話を聞いた。Part. 2も予定されているが、Part. 1だけでもあまりに貴重なエピソードがあふれるインタビューとなった。

インタビュアー:中込智子


●まず島掬次郎さんは名古屋の出身で、1981年に早稲田大学入学と共に東京へ来たと伺っています。

「うん。そんで最初は早稲田のロックサークルに入ったわけ。宙也(アレルギー他)とか亜子(ゼルダ他)がいた。宙也はスパイクヘアーっていうか髪立てとってさ、『アレルギーっていうバンドをやる』と、まだメンバーが一人も居ないときから言っとった。そんで俺はパンチパーマ。『東京へ行くからには馬鹿にされたらいかん!』って気合い入れるためにパンチにしたんだけど。そしたらなんか最初の説明会から宙也ばっかりチヤホヤされて、俺のとこには全然人が寄ってこなくてさ」

●間違いなくパンチのせいですね。

「だな。で、そん時の3年生でサークル幹事長だった新井さんって人が当時モダーンズっていうバンドをやっとって、それがその後ザ・フェイスっていうバンドになるんだけど、その新井さんが81年にモッズメーデーを始めるんだよ。俺、モッズメーデーは第1回から行ってるんだ、シルバーエレファント(吉祥寺)。後にザ・シェイクスをやる黒水兄弟がスクールズアウトっていうバンドやっとったり、黒田マナブもバンド名忘れちゃったけど出てた。コレクターズの加藤君のバイクは1回目じゃなかったかな」

●東京MODSシーンの勃興を生で見ていた。

「まあなんていうか、大学のサークルっていう枠を飛び越えて、なんかやってやる!っていう奴ばかり集まってたから、楽しかった。そのころ新井さんが『掬ん家に行っていいか?』って急に泊まりに来てさ、『掬、その髪型変えた方がいいんじゃない?』っつって。幹事長として俺のパンチパーマがずっと気になってたみたいでさ、今日は言うぞ!ってわざわざ来てくれたみたいなんだよ。俺はそのころ、サークルの先輩に手伝ってもらって『ビッグになるぞ!』ってオリジナルの曲やってたんだけどーーただ、俺はそんな感じだったから、サークルでメンバーが見つかんないわけよ、人数も少なかったし」

●はははは。どうやってバンド結成へと至るんですか?

「高校の時に一緒にバンドやっとったドラムの岡本って奴が明治大学に入っとってさ、そいつに葉書書いたの。『バンドやるぞ!』つって(笑)。」

●まだ携帯電話もない時代ですものね。

「うん。そしたらそいつから公衆電話で電話がかかってきて、そいつが入った明大のサークルがLM研っていうどえらいでかいとこでさ、『こっちには人がいっぱいおるからこっち見に来い』って言われて、俺のオリジナル曲を入れたカセットとラジカセを持って行ったら、1日で5人ぐらい会って話せたんだよ。岡本が何時から誰々って面接スケジュール組んでくれとった(笑)。そんでそこで『いいねえ、やろうぜ!』って話になったのが小高(ベース)と、1つ先輩の長田さん(ギター)。そんで始めたのがスピルカ」

1982年 スピルカ@明治大学

●ザ・ジャンプスの前身となるバンドですね。

「うん。そんで81年の8月に新宿JAMで、早稲田のサークルのライブでアレルギーとかと一緒にやったのが一番最初だね。それからデモテープを作って、いろんなライブハウスに送ってさ。そしたら新宿ACBが『よかったらやってみる?好きにやってみていいよ』って連絡くれたんだ。そんでサークルの先輩バンドとかにも声かけて、11月に初めてACBで、スピルカ主催でやったんだ。学生だから客も入ったし、どえらい盛り上がって、手ごたえバッチリだったんだけど、バンドも客も暴れすぎて色々店内のもの壊しちゃってさ。『てめーフザケんな!』って店長から無茶苦茶怒られた。だけどACBのブッキング担当の福迫さんからは『いいじゃん!来年から月1でやろう』って言われて」

●そして始まったのが “ジャスト・ア・ビート・ショウ”?

「うん、82年4月が第1回だね。その1回目の出演バンドが、ザ・シェイクスとシャムロックとメニュー(ちわきまゆみ)とスピルカ」

●滅茶苦茶豪華じゃないですか!

「だよな(笑)。そこからほぼ毎月、合計7回やったかな? その間にストリート・スライダーズやエコーズも出たんだ。なんでかというと福迫さんが『お前はまだまだ子供で未熟だから、勉強しないとだめだ。毎日来い、タダでいい』って言ってくれたもんで、毎日ACBに行くようになったんだよ。カウンターの女の子とも仲良くなってさ、酒もタダにしてくれて。だから俺、大学へも行かず毎日ACBに行って、好きなだけビール飲んで、ライブ観とった(笑)」

●何でしょうか、天国?

「うん。でさ、いいバンドが出るとすぐに楽屋に行って『君たちいいねえ、俺、ここで月一でイベントやってんだけど、出ない?』つって声かけてさ、それがスライダーズでもありエコーズでもあったのさ」

●……物凄いくそ度胸ですね。ぶっちゃけ先輩バンドですし、年齢も上ですし、当時島さん18~19歳ですよね?

「うん。当時は、年上だとかそんなことも何にも考えてなかったんだよ。でも俺のそんな言葉にさ、ジェームスは立ち上がって『よろしくお願いします』って丁寧に言ってくれて、蘭丸は座ったまま『いいよー』って言ってくれたんだ。エコーズの辻(仁成)さんには『君たち結構よかったよ。しゃべりが面白かった』って言ったら『それ、失礼じゃない?』とかって怒っとったけど、すぐ電話番号教えあってしょっちゅう電話し合う仲になったんだ」

●いい話ですねえ。

「ACBはさ、福迫さんが当時『ACBをビートシーンのメッカにする!』って気合入っとってさ、”ウェルカム・トゥ・ザ・ビートクラブ”っていうイベントを毎月やってて、それはシェイクスとペッツがメインで、そこに毎月1個違うバンドが入って3バンドでやるのが基本だった。そこに入るのがスライダーズだったりエコーズだったりレイン(後にバッジ)だったりね」

●それを全て見ていた。最高の環境ですね。ただスピルカはわずか1年ちょいで解散します。

「ザ・モッズがACBでやった時に床が抜けそうになった事件があるんだけど、それでACBが地下に移転することになって、そのタイミングで福迫さんが辞めるってなってさ。俺たちも、もういいかなって思ったのと、その頃、渋谷屋根裏にも結構気に入ってもらってさ。ブッキングマネージャーの竹田さんから『月一でワンマンやってみない?お客さんは来なくてもいいから』って言ってもらって始めたんだけど、その2回目にスピルカが解散することになって申し訳なかったんだよな(苦笑)。83年だね。で、84年に俺と小浜さん(ベース)とクロス(ギター)と吉田(ドラム)とピアノの5人でフェイセスみたいなバンドをやりたいと思って、ドッグベリーって名前で新しいバンドを始めたんだよね。ただ、俺当時ティーボーン・ウォーカーって人が大好きで、”T-Bone Jumps Again”ってアルバムがあってさ。これいける!って思って、クロスと地下鉄で四谷のフォーバレーのライブに向かうとき、俺が『バンド名変えようと思うんだけど』『えっ、何?』『うん。ジャンプスって名前どう?』『カッコ良すぎんじゃねえの?』みたいな感じで、THE JUMPSになったんだよ」

●自由っす。

「そんで、当時早稲田のサークルの先輩にあたる元バッドコンディションの太田さんがスウェイっていうバンドをやっとって、オムニバスカセットを作らないか?って誘ってもらってさ。そこから正式にジャンプスを名乗るようになって、スウェイと突撃ダンスホールとフラワーズと4バンドで作ったのが “無印不良品”。録音は84年だけど、発売したのは85年に入って年明けすぐ。ただ、録音のタイミングでベースが小浜さんから小高に代わり、ピアノの代わりにサックスのノリが入り、さらに発売前にクロスが抜けちゃって長田さんが戻り、結局、スピルカにサックスが加わった形になったんだよね。それでライブをやったらめっちゃ手ごたえがあって『よし、これで行こう!』とジャンプスとしての体制ができ上がった。そしたら小高が『ジャスト・ア・ビートショウも復活しようぜ』と言い出して、85年の4月から、また渋谷屋根裏で月一イベントを始めたんだ。

1985年 THE JUMPS@渋谷屋根裏

●スピルカから始まったジャスト・ア・ビートショウは、そういう経緯でジャンプスに引き継がれたんですね。

「うん。そんでノリが、『ブルーハーツっていう滅茶苦茶カッコいいバンドがいるんですよ。ビートショウに出てもらいましょうよ!』っていうんだよ。俺、スピルカの時にブレイカーズと対バンしたことがあったんだけど、楽屋で一言も口利かずただガンつけ合ってたんだよね(笑)。ジョン・リー・フッカーを見に行った時にヒロトとも会ってるんだけどあんまり印象よくなくて、『あの生意気なブレイカーズの奴とつるつる頭のコーツの奴か!』って思って正直気が進まなかったんだけど、ノリが『とにかく1回見てください!』っていうから屋根裏に行ったんだ。そんで早めに行ったらなぜか辻さんがいて、あと良太(the POGO)もいて、時間前だったから3人でお茶して」

●一見不思議な3人組ですが、良太さん当時まだTHE305の頃ですよね。コーツのヒロトさんと305の良太さんで当時辻さんと親交があったことは聞いています。

「そうそう。そんで辻さんが『お前ブルーハーツ見に来たの? ボーカルの奴、俺の子分なんだよ』って言うわけさ。その時、辻さん絶対俺のことも他所で子分って言っとるだろって思ったんだよな(笑)」

●ははははは、まあ辻さんは面倒見の良いお兄ちゃんという感じだったんでしょうね。

「まあね。辻さん当時渋谷に住んどって、俺、時間余るとしょっちゅう遊びに行っとったもんで、『ここはお前の無料休憩所じゃないんだぞ』とか言われてさ(笑)。まあそんな感じで一緒にブルーハーツ見に行ったら、めっちゃカッコよかった!俺もそこは素直だからさ、『ジャスト・ア・ビートショウってイベントやるんだけど、一緒にやろうよ!』って言って誘って、ブルーハーツも『じゃあ俺らもジャンプス見に行くよ』って明大の学祭のライブに来てくれてさ。俺そのころ、レオタード来てパントマイムとか間に挟むライブやっとってーーデビッド・ボウイにあこがれてさ(笑)。そんで、最後にはレオタードも脱いで全裸になっちゃったりしたんだけど、それを見たマーシーが楽屋に来て『最高だね!』って言ってくれてさ」

●ははははははははは。

「そんで85年の7月7日、七夕の日に、渋谷の屋根裏でジャンプスとスウェイとの3バンドで初めてブルーハーツと一緒にやったんだよね。そん時はもうお客さんパンパンで、グチャグチャに盛り上がったんだよ。そんで打ち上げでヒロトやマーシーと話して、『これからジャスト・ア・ビートショウどんどんやっていこう、盛り上げようぜ』って話になって、俺たちが出られないときはブルーハーツが主催する形でやった時もあった。秋には新宿ロフトで昼夜ぶっ通しのスペシャルをやったりもした。その頃はもう、ライブやる度にお客さんがガンガン増えるっていう状況だったな。そういえば “エモーショナル・マーケット”ってイベントを新宿JAMでやっとった高橋くん(DADDY-O-NOV)が、『シリーズギグは、とにかく定期的にやるのが一番大事だ』って言っとってさ、それで渋谷屋根裏毎月第1土曜日って感じでやるようになったんだよね。屋根裏、好きにやらせてくれたなあ。それでその85年の12月に、初めてのライブレコーディングを屋根裏で、ジャンプス、ブルーハーツ、ロンドンタイムス、ホルモンズの4バンドでやったんだ」

●ジャスト・ア・ビートショウの初のライブオムニバスLPを作る予定だったが、録れてなかった。

「そう。レコーディングに失敗するんだよね(苦笑)。それで86年の3月に再びレコーディングライブをやろうという話になるんだけど、その頃ホルモンズが活動休止中で、レピッシュに声をかけ」

●レピッシュは、ジャンプスがリハをしていた明大のサークルLM研の隣の部室、POP研を練習場所にしていたので、親交があって。

「うん。それが “JUST A BEAT SHOW 1986.3.8 YANEURA“(1986年5月)」

『JUST A BEAT SHOW』

●各バンド3曲ずつ収録の全12曲。本作は85年~86年というインディーズシーンの急激な勃興を、ビートシーンサイドから伝える、非常に貴重な記録でもあります。というわけで、まだまだ序盤の話題しか出ていないはずなのですが内容は異様に濃くなっていますので第一回はここまでとし、次回第二回に続けたいと思います。島さん、まだまだお願いします!

「おう!(笑)」


Release Information

the JUMPS
REBEL BANQUET

2022/11/02 Release
Swingin’DOG / SDR3006

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