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ブルーハーツ、ロンドンタイムス、レピッシュ…ジャスト・ア・ビートショウを立ち上げいまだ現役のロックンローヤー・島キクジロウが80年代以降のビートシーンを語り尽くす Part. 2

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19年ぶりの新作をリリースしたパンクバンドTHE JUMPS。パンデミック、憲法、反戦、自由など様々なテーマをレゲエ、ジャズ、ロカビリー、R&Bなどの音楽的要素を取り入れたレベルミュージックとともに叩きつけるリアルなサウンドはあらゆる年代の音楽ファンからのリスペクトを一身に集めている。
そんなTHE JUMPSといえばブルーハーツやレピッシュらとともに主宰してきたシリーズギグ “ジャスト・ア・ビートショウ”であり、伝説的な夜を数多く作ってきたTHE JUMPS首謀者、島キクジロウ(島掬次郎)に話を聞いた。2002年の300回まで20年間続けられた “ジャスト・ア・ビートショウ”の裏側から島キクジロウが弁護士になるまで、THE JUMPSの歩みとともにインディーズシーンを振り返る貴重なインタビュー第二弾。

インタビュアー:中込智子


●2回目となる今回は、ライブオムニバスアルバム “JUST A BEAT SHOW 1986.3.8 YANEURA”(86年5月リリース)以降の話題から。まずこの86年、初代渋谷屋根裏があったセンター街のビルが、急遽閉鎖されることになり。

「当時 “JUST A BEAT SHOW~”のレコ発ライブをジャンプス、ブルーハーツ、ロンドンタイムス、レピッシュの4バンド各自バラバラでやろうって言っとって、俺たちは屋根裏でやる予定だったんだけど、当日行ったら、屋根裏が立ち入り禁止になっとってさ。だけどレコ発を中止にするのは嫌だったで、いろんなとこに連絡したら、下北沢LOFTがやらせてくれるって言うんで、急遽屋根裏の入り口に貼り紙してお客さんに移動してもらったんだよね。下北沢LOFTには、その後も随分お世話になったよ」

●そうしたことを挟んで86年8月でしたか、屋根裏が本当に閉店する最後の3日間のライブがあって。常連だったバンドはもちろん、RCサクセションの清志郎さんをはじめとする大御所も出演し、渋谷センター街はえらいことになりました。

「あったなあ。しかも屋根裏は当時ソールドアウトっていう概念がなかったで、人がギュウギュウの中で誰かが苦しくなって出てくると、代わりに階段で待っとる奴が入るっていうシステムで、それでも入れん奴がセンター街で飲みながらゴロゴロしとってさ(笑)。屋根裏は本当によくしてもらった場所だで、無くなっちゃうのはマジで残念だった」

『JUST A BEAT SHOW』

●ですね。そしてそんな屋根裏の仲間である先の4バンドは、その後も長い付き合いとなり、交友を重ね。

「うん。リリースから5年後の91年には、オンエア(現渋谷O-East)で4バンド揃ってやったね。言い出しっぺはカメ(ロンドンタイムス)か誰かで、そのミーティングも下北沢LOFTでやったな。みんなが俺にさ、ヒロトはやる気だからマーシーを説得してくれって言い出して、『俺がやりたいって言った話じゃないのに、なんで俺が説得する係になっとるんだよ!』と(笑)。まあブルーハーツはその頃 “トレイントレイン”で大盛り上がりだったでさ、メチャクチャ大変だったと思うんだよ」

●当時は、メジャーに行くとバンド主導で自由にライブを組むのが難しい時代でしたしね。それで結局、ライブではなくパーティーだということにして強引にやってしまおうという流れになり。

「そうそうそう、確か3000円の飲み放題で、招待一切なしで、チケットは全部バンドの手売りのみの全バンド100枚ノルマ(笑)。ライブじゃなくてあくまで友人間のパーティーだからって言ってさ。そんでマーシーの条件が、各バンドへのギャラは全部飲み代にすると。当日、ブルーハーツだけ80枚ぐらいしか売れとらんかったもんで、20枚分、6万円払ってもらわんといかんとか言っとったんだけど、結局、800人ぐらい入って、パンパンだった。そんで、ギャラはとにかく飲み尽くすんだってことになり、打ち上げも渋谷の広い店で200人ぐらいでやったんだけど、あのとき俺、初めて石川(健一)君(DJ ISHIKAWA)に会ったんだよな。ライブの舞台監督から打ち上げの仕切りまで全部やってくれた」

●それで色々スムーズだったんですね。打ち上げでは確かレピッシュの上田現さんが料理の上にダイブしたり、ブルーハーツの梶原さんが速攻潰れて掘りごたつの下で寝たために行方不明になったりと、あれらをまとめるのは相当大変だったと思います。

「あったなあ。それでもギャラが余ったもんで、そのあとも3回ぐらい打ち上げやったんだよ。そんでその全てに参加しとったのがイエッツの奴らでさ、なんだよ、なんでライブに出とらんお前らがおるんだとか言いながら、みんなでタダ酒を飲んだ(笑)。そんで、なこ(中込智子)があの日のパーティーを唯一レポートしてくれたんだよな、宝島だっけ?」

●私も当日チケットのもぎりを担当しつつ、あくまでパーティーの模様として記事に……したと思うんですが、実はあんまりよく覚えてません(笑)。最後に出演者全員でおしめ履いて登場しましたっけ?

「いや、おしめ履いたのは94年のJUST A BEAT SHOW 100回記念のときだよ。おしめっていうかアテントっていうやつね。ヒロトが『今日みんなの分買ってきたから!』って持ってきてさ、やだなあと思いながらもつい(笑)」

●ほんと仲いいですよね(笑)。この4バンド、音的にも全然違うのに。

「はははは、ほんとだよな(笑)。100回記念はO-WESTで2DAYSやったんだけど、2日目はジャンプスのほか、ケンヂ&トリップスとTheピーズにスーパージャンキーモンキー。俺もいいセレクトするよなあ。ブルーハーツとフールズが一緒にやったのも、BEAT SHOWの時だけだし。それは渋谷ライブインね」

●確かに島さん、ブッキングの妙がありますよね。

「やっぱりさ、同じジャンルのバンドで固めないっていうかーーいや、同じジャンルで固めた方がいいって、その方が客が来るからって何回も言われたんだけどさ、でもそれってみんなやっとるがやな? それよりも『なんかいいな』って俺が思う組合せでやりたいんだわ。それがいいか悪いかは分からんけど」

●でもだからこそJUST A BEAT SHOWが300回も続いたっていうのもあるんではないでしょうか。

「そうかもしれんね(笑)」

1994年 THE JUMPS

●はい。少し話が飛んでしまったので戻しまして、94年に100回目があり。

「そのちょっと前には横浜のクラブ24っていうライブハウスさ、JUST A BEAT SHOWの “Sunday Night Session”っていうオムニバスアルバムのレコ発を、ジャンプスとイエッツとキングビーズとフレデリック(exロンドンタイムス)でやったのがあって。その時ゲストでレピッシュも出たんだけど直前まで告知はせずにさ、その1週間ぐらい前のレピッシュの県民ホールかなんかの時に、手書きのチラシをそれぞれの席に置いといたんだわ。そのチラシに翌日の朝9時から電話受付するって書いてさ。まあ俺の家の電話なんだけど」

●粋なことしますね!

「実は昔RCサクセションが渋谷東映でオールナイトやった時のアイデアなんだよ。81年頃かな、12月にRCが武道館でやった時、手書きのチラシを席に置いて、それだけの告知でライブをやったっていうのがあったんだけど、それをやりたくてさ(笑)。でもさ、いざやってみたらその日の朝7時ぐらいからもう電話鳴りっぱなしでさ!しかも、「チケットの予約の電話はここですね?」つって切っちゃうんだわ。ふざけんなと思ったけど、受付開始の9時からわずか20分ぐらいで、レピッシュ用に取っといた150枚だったか、全部終了してさ。その後も電話鳴り続けるもんで、もう放置して出かけたった」

●ははははは。あとイエッツは、そういえばドラムのバイチさんが後にジャンプスに加入しますね。

「いや、ジャンプスじゃなく、一回休んだ期間にやったバンドで一緒にやったんだよ。95年頃に、ブルーハーツのオリジナルメンバーだったベースのマサミと、ギターのクロス(レザース/島キクジロウ&NO NUKES RIGHTS)、あとエコーズのドラムだったツトムさんと4人でバリケード・ダイレクト・ドライブっていうバンドを遊びで始めたんだけど、ツトムさんが病気になっちゃってさ。代わりにずっと仲が良かった竜介(元ブルーハーツ)が入ったんだけど、当時、大型トラックの運転手やっとってさ。しばらくすると音楽やめて田舎に引っ越すとか言い出したんだわ。そんでバイチを呼んだんだよ。そのあとクロスが抜けてフレデリックのヤナちゃんが入った頃に、バンド名をCabaret’ts(キャバレッツ)に変えて、ちゃんとやろうってことで、ジャンプスを休むことにしたんじゃなかったかな。その後、バイチが抜けてアー坊(後にストリートビーツ)に代わって、それから98年だったかな、ギター・現ジャンプスのモッキー、ベース・山根(後にストリートビーツ)で、メンバーを一新してやる流れになってさ。その時、山根が『もうジャンプスに戻しましょうよ』って言うんで、それでJUST A BEAT SHOWの200回記念の時にジャンプスになったんだよ。完全に新しいジャンプス。200回記念は川崎クラブチッタで2日やって、渋谷O-WESTで2日やって、下北沢シェルターで1日の5DAYS。1999年だね」

1996年 バリケード・ダイレクト・ドライブ

●実は200回記念のタイミングで私はジャンプスを久しぶりに見ることになったんですが、サウンドがガラッと変わっていて驚いたことを覚えています。

「そうそう、そっからいわゆるパンクになったんだよ。「パンク」を名乗ることって、俺なりにハードルがあって、簡単に口にしちゃいけない言葉っていう感覚があったんだけど、もう開き直ったって感じ。まあその現実的な理由は、モッキーがパンクしか弾けないから(笑)。ブルースっぽいこととか16ビートとかできないんだよ。でも、そこが魅力でもあるし、『もういいわ、パンクで!』って(笑)。その後、ギターはモッキーからアツシ、ツナキ、そしてモッキーへと代わり、ベースはイツキ、ヒデ、カツジ、現在のエンリケへ、ドラムもイズミ、マサとチェンジしたけど、今に至るまでひたすらパンクロックを突き詰めてきたっていう自負はあるね」

2001年 THE JUMPS

●そして2002年の300回記念までは、もう本当にあっという間でした。

「300回でそろそろキリのいいとこにきたなって思ってさ。最後の10回はカウントダウンでやろう。そしてラストは、デカいとこでやるってのもいいかもしんないけど、でも」

●大会場ではなく、渋谷の円山町をジャックをすることにした?

「うん。クラブ・エイジアとヴエノス東京、それとヴエノスの上の当時はクラブ Pっていう名前だったクラブの3か所で、オールナイトでやったんだよな」

●この当時はまだ複数店舗を自由に行き来できるイベントはなかったというか、そうしたアイデアを初めて渋谷で実現したイベントだったと記憶しています。

「ヒデト(DJ/高円寺クルーラカーン)もTHE WILD ROVER(アイリッシュイベント)で同じ感じでやったよな」

●ヒデトさんは島さんを継承したんだと思いますよ(笑)。それと、300回記念で何より覚えているのが、円山町に曲がった瞬間、道の端から端まで上部を飾るJUST A BEAT SHOWの大きな横断幕が掲げられていたことで。

「横断幕、最高だったよな。あれ、警察に怒られて二度とやれんのだと。今度やったら絶対に許さないって言われたってエイジアの奴が言っとった(笑)。カウントダウンライブの10回は、全部めちゃくちゃ面白かった。SAとthe原爆オナニーズとジャンプス、あとフルスクラッチの4バンドでエイジアでやった時とか」

●おお、ほぼ中京チーム。

「そうそうそう(笑)。そのあとSAのタイセイと原オナのタイロウさんと俺で並んで飲んどったら、周りの奴から『いやー、名古屋弁凄いっすね』って言われたりして。その後、ここでは言えんような事件もあったりして大変だったけど」

2003年 THE JUMPS

●ライブ本編の話じゃないじゃないですか(笑)。でも島さんは本当にアグレッシブですよね。仕事をやりながら活発にバンドをやり、90年代後半からは高円寺ドッグベリーという飲食店をやりながら精力的に活動を続け、2003年からはJUST A BEAT SHOWに代わる新イベントとしてPUNKS BANQUETを始め、そして2009年に司法試験合格とともにまさかのロック弁護士に。この間、一体何があったんでしょうか?

「弁護士になろうと思ったキッカケは41才の誕生日だったで、2003年の11月11日。2002年にJUST A BEAT SHOWがひと段落して、当時パンクブランドのHUNDRED CLUBとコラボした商品を作ったり、コラボイベントGET YOUR STYLEでは、勝手にしやがれ、コブラ、ライダーズなんかとやったりして、それなりに新しい展望も見えつつあったんだわ。だけどーーなんていうか、もうひとつだなぁっていう感覚もあってさ。それで41歳の誕生日の朝、布団の中で色々考えたんだよ。16歳で初めてスタジオ入って、ビートルズのコピーとかからバンド初めて、25年経ったなあって。『でも、考えてみたらまだあと25年あるな。すっかりおっさんになったけど、まだ同じだけの時間がある』と。16歳からやりたい放題の25年を過ごしてきて、これからまだ25年も楽しめるのか。『でもちょっと待てよ。そもそも俺がバンド始めたのは、世の中ひっくり返すためだろう!?』と。岡林信康とかさ、ジョン・レノンやクラッシュとか聴いてきて、社会をひっくり返すのはロックだ!とか思っとったのに『このままじゃ社会は1ミリも動かねえじゃねえか!!』って思ったんだよ。それで、『お前、もう1回人生があったら何やる?』って」

●自問自答をされた。

「そう。『売れないロックバンドをやり遂げるのはもちろんオッケー、でも政治家になるのもいい。なんだっていいんだで、もう1回人生があったらお前何やるか、ゼロから考えてみろよ!』と。そこで初めてーー今までどんなに苦しくてもバンドを止めるなんて考えたこともなかったのに、1回白紙で考えてみることにしたんだわ。もう1個の人生で何をやるか、自由に選択できる最後のチャンス。それはもう一つの発見だった。ワクワクしながら布団から出た。そんでしばらく考えとったら、ある日新聞でさ、司法試験に環境法っていう科目が新しく入ったってのを見て。俺の最大のテーマって環境問題だから、法律から攻め込むのも悪くないなって思ったんだよ」

●私、実は島さんが言った言葉でずっと忘れられない言葉があるんですよ。「俺、勉強は得意だからよ」って(笑)。この言葉を断言できる人は私の周りには1人もいなかったこともあって、当時かなりの衝撃を受けたんです。なので、弁護士になったという話を聞いた時は確かに非常に驚きましたが、同時にすぐ納得もしました(笑)。

「音楽は別に得意分野じゃないけど大好きだし、一番カッコいいと思うから音楽でやっていきたいと思う。思うけど、得意分野でもう1個の人生、勝負するのもアリかなと思ったんだよな(笑)」

●思っても普通できませんけれどもね(笑)。しかも完全にゼロから法律の勉強開始ですよね?

「うん。俺もともと経済学科だったし。たださ、ロック弁護士、ロックンローヤーってキャッチーだなと。これはイケると。それで次の年にロースクールに入って、やるからには日本で一番勉強する奴になろうと決めて、2004年1月のシェルターでジャンプスは活動休止するって発表した。ただ、その後も春休みや夏休みには、こそっとライブやったりはしとったんだけどさ(笑)」

2003年 THE JUMPS

Release Information

the JUMPS
REBEL BANQUET

2022/11/02 Release
Swingin’DOG / SDR3006

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