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ヒップホップ、スピリチュアル・ミュージック、アシュラムの世界観、ジャズ・センスを融合させたいと思っていた。スタンダード・ジャズをマスターして、それを30年間演奏し続けたいとは思わなかった。— Surya Botofasina『Everyone’s Children』インタビュー

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 ポスト・コロナのLAの音楽シーンにおいて、ジャズ、インプロヴァイズド・ミュージック、ニューエイジ、ヒーリング・ミュージックなどが融合された新たなシーンが形成されつつある。ジャズの即興的側面、コード感を取り入れつつも、テクニックをひけらかさない、リスナーをディープ・リスニングの世界に誘うイマーシヴな音楽をクリエイトするアーティストが増えており、それを代表するのがLAで活動するカルロス・ニーニョ、サム・ゲンデル、サム・ウィルクス、ネイト・マーセロ、ジェフ・パーカーなどだ。

 LAの音楽史をたどっていくと、このスタイルの音楽の一人のパイオニアが、アリス・コルトレーンだと言えるだろう。ジョン・コルトレーンの妻でありながら、彼のグループのピアノ奏者として知られるようになったわけだが、1967年にジョン・コルトレーンが亡くなってから、彼女の人生は一変する。その悲しみから彼女は肉体が衰弱し、幻想を見るようになり、精神も崩壊しかけたと言われているが、そんな苦しい時期を経験した彼女は、インドのスワミ・サッチダナンダ、サティア・サイババなどのスピリチュアルな教えに触れることで回復したと言われている。精神世界に目覚めた彼女は、トゥリヤサンギータナンダに改名し、スピリチュアル・リーダーとしてロサンゼルス郊外にあるマリブにヴェダンティック・センターを1975年に設立し、アゴーラ・ヒルズにサイ・アナンタム・アシュラムを1983年に設立した。48エーカーの広大な土地に設立されたこのアシュラム(修行の場、スピリチュアル・コミュニティ)には、彼女の教えを求める人々や家族が生活をするようになり、アシュラムの住人はアリス・コルトレーンをスピリチュアルな師匠としてスワミニと呼ぶようになった。

 そんな環境の中で6歳から10代後半までを過ごし、直々にアリス・コルトレーンの精神的、音楽的教育を受けたキーボード奏者、コンポーザーがスーリヤ・ボトファシーナだ。母親が著名なジャズハープ奏者、ラーダ・ボトファシーナだったため、サラブレッドのジャズ家庭に生まれたわけだが、アリス・コルトレーンのバジャン(ヒンズー教の神の賛歌)を毎週聴いて育ち、演奏の手ほどきも受けた。一方で、彼はヒップホップにも多大な影響を受け、のちにニューヨークのジャズ音大の名門であるニュースクールを卒業。その後は、レジー・ワークマン、ジョーイ・バッドアス、ギャングスターのグールー、アメル・ラリューなどと共演を果たし、LAの実験的ジャズ、インプロヴァイズド・ミュージック・シーンのキーパーソンであるカルロス・ニーニョと出会い、またターニングポイントを迎える。カルロスはスーリヤの才能を見出し、ニーニョのビルド・アン・アークに参加させ、イギリスのSpiritmuseレーベルからリリースされた本作「Everyone’s Children」の制作を2021年に二人で開始することになった。カルロスはパーカッショニスト、プロデューサーとしてこの作品に関わり、LAシーンを代表するジェシー・ピーターソン、ミア・ドイ・トッド、ネイト・マーセロー、パブロ・カロゲロだけではなく、ジャズ界の重鎮ドワイト・トリブル、スーリヤの母であるラーダ・ボトファシーナなどが参加し、アリス・コルトレーンの声も最後の曲で聴くことができる。アリス・コルトレーン、ファラオ・サンダース、ジョン・コルトレーン、マッコイ・タイナーなどが作りあげたスピリチュアル・ジャズの世界観をさらに進化させた本作は、「スピリチュアル・ジャズ」というカテゴリーさえも超越し、ヒーリング、メディテーションなども取り入れた新たな音響的世界観を提示している。

 そんなユニークなバックグラウンドの中で育ち、このような音楽を作るために生まれてきたと言っても過言ではスーリヤに、彼の人生を振り返りながら、多くの苦難を乗り越えて実現したこのファースト・アルバムの制作秘話について語っていただいた。

Surya Botofasina『Everyone’s Children』 Interview
Text & Interview by Hashim Kotaro Bharoocha
Edited by Shinichiro Mikawa(OTOTSU)

インタビュー・構成:バルーチャ・ハシム廣太郎
編集:三河 真一朗(OTOTSU)


アーティスト:Surya Botofasina(スーリヤ・ボトファシーナ)
タイトル:Everyone’s Children(エヴリワンズ・チルドレン)

発売日:2022/11/23
レーベル : rings
品番:RINC96
​フォーマット : CD​
ライナー解説:Hashim Bharoocha


OFFICIAL HP : Surya BotofasinaEveryone’s Children (ringstokyo.com)

—— あなたは、もともとロサンジェルス出身なのでしょうか?

スーリヤ・ボトファシーナ(以下SB): もともとはサクラメントで生まれたんだけど、南カリフォルニアのアゴーラ・ヒルズにあるアシュラムの中で育った。大学はニューヨークのニュースクールに入ってから、ニューヨーク州にずっと住んでいるんだ。2001年くらいからこっちに住んでいる。でもここ数年間は、ニューヨークとLAを頻繁に行き来している。

Surya Botofasina

—— あなたの母親のラーダ・ボトファシーナは著名なハープ奏者ですが、母の影響でピアノを演奏するようになったんですか?

SB : 母親の友人から、8歳からピアノのレッスンを受けるようになった。そのあとも何人か先生について、コードのヴォイシング、ジャズ・ハーモニー、ジャズ理論を学ぶようになった。母親のレコーディングや作品以外には、毎週日曜日にスワミニ・トゥリヤサンギータナンダのオルガンの演奏を聴くことが、主な教育になった。

Carry On – Radha Botofasina

—— 最初からジャズを習っていたんですか?それともクラシックから習い始めたんですか?

SB : 最初はクラシックだった。クラシックを習いながら、ラジオで聴いていた音楽をピアノでコピーしていた。当時はポップス、ヒップホップが南カリフォルアで人気があった。子供の頃は、LLクールJ、ジャネット・ジャクソン、マイケル・ジャクソンの大ファンだった。だから、彼らの音楽をピアノでコピーしていた。クラシックのテクニックを学びながら、バッハ、シューマンなどを演奏していた。のちに、スワミニから、ショパンの「ポロネーズ第3番イ長調」という曲を演奏するように言われて、そこからシリアスに学ぶようになったよ。

—— スワミニ・トゥリヤサンギータナンダは、アリス・コルトレーンの事だと思いますが、彼女から直接ピアノの指導を受けていたんですか?

SB : 彼女は、僕の音楽教育の進歩をいつもチェックしていた。僕の教育全体をガイドしていたような感覚だったよ。いろいろなピアノの先生から学んだけど、最終的に彼女の前でピアノを演奏したり、彼女からアドバイスを受けることが多かった。彼女から直接的な教育を受けていた時期もあった。音大に入ってからは、自分が作曲した曲の楽譜を彼女に見せて、アドバイスをいただくこともあった。定期的に彼女にアドバイスを受けに行って、どう進むべきか助言をもらっていたよ。

—— なぜ家族でアリス・コルトレーンのアシュラムで暮らすようになったのでしょうか?何歳の時からあなたはそこで生活をしていたのでしょうか?

SB : 母親がスピリチュアルな探求をする中で決断したことであって、彼女は僕をそこに連れて行ったんだ。母親が表現者として生きていく上で、彼女にとってベストなスピリチュアルな道筋を見つけたんだ。アシュラムが最初に設立された時から、僕らはそこで暮らしていた。1983年に、僕が6歳の時に家族とアシュラムで生活するようになった。小学校1年生だったね。他にも同時期にアシュラムで暮らすようになった人たちもいたよ。7年後、僕が13歳の時に継父も一緒にそこで暮らすようになった。

ASHRAM: The Spiritual Community of Alice Coltrane Turiyasangitananda | 4:3 Feature Films

—— アシュラムで生活することに対して、あなたは反抗したことはあったんですか?

SB : それは全くなかった。最高の生活だったよ。そして、そこに暮している人はみんな、最高の生活を送っているという自覚があった(笑)。楽園で生活しているようなものだったから、反抗したいという気持ちが湧いてこなかったよ。48エーカーの土地の中で暮らしていたんだけど、子供にとっても、大人にとっても、広大な土地だった。とても美しい場所で、素晴らしいコミュニティがあったし、他に一緒に育った子供たちがそこにいて、今もその人たちとは交流がある。だから、美しくて、平和で、静かで、毎日天候が良好で、自然に囲まれた環境の中で家族と生活することができた。小川、山などがある環境の中で遊んでいたから、僕らは素晴らしい生活を送っていることをちゃんと知ってた。困難だったのは、大人になってからだね(笑)。

—— アリス・コルトレーンがアシュラムを運営していたことを知らない人もいると思うので、もっと詳しくどういう場所だったのか教えてもらえますか?

SB : 南カリフォルニアのサンタモニカ山脈にあったんだけど、ズマ・ビーチという場所から15分ほど離れていた。アシュラムで暮らすことを選んだ人たちは、何らかの思し召しがあって呼ばれた人たちだと思うんだ。アシュラムは価値観の面でも、実践の面でも、より深いレベルでスピリチュアル・ライフを求めていた人たちが集まりたくなるような場所だった。例えば、スワミニが偉大なミュージシャンだったから、アシュラムが音楽リトリートだと思う人もいたけど、そういう場所ではなかった。僕らはそこでバジャンを歌ったり、毎週スワミニがオルガンを演奏していたけど、色々なミュージシャンが参加するジャム・セッションが行われているわけではなかった。アシュラムの焦点はスピリチュアル・ライフだったから、そういう生活を送りたい人は、そこに集まったんだ。

—— あなたたちが歌っていたバジャンというのは、インドの伝統的な神の賛歌ですよね?

SB : そう、サンスクリット語で歌うコール・アンド・レスポンスを主体として賛歌なんだ。でもこのスタイルはインドに限られたものではなく、他の文化にもある。僕にとってスワミニは最も偉大なミュージシャンであり、彼女がアシュラムで歌っていた賛歌には、彼女の独自の音楽性が反映されていた。彼女はオルガンを演奏して、僕らを音楽的な旅に連れて行ってくれたわけだけど、彼女の演奏スタイルはある意味(キリスト教の)教会に似ていた。でも、それは違うバージョンの教会だった。彼女の演奏のメロディ、ハーモニーは教会の要素も入っていたけど、それはもしかしたら、彼女がデトロイト出身だったからかもしれない。はっきり理由はわからないけど、僕はとにかく彼女の演奏が大好きだった。彼女の音楽を分析するようになったのは、彼女が地球を離れて何年も経ってからなんだ。子供の頃は、とにかく彼女の演奏が大好きで、気持ちいいと思っていた。

—— ピアノ・レッスンを受けながらも、アリス・コルトレーンからスピリチュアル・ミュージックも学んでいたということですか?

SB : なかなか面白い要素のコンビネーションだったよ(笑)。公立の学校に通いながら普通の授業を受けて、特に高校生の頃からは、伝統的なジャズを勉強していた。日中は授業を受けて、スポーツが大好きだったから放課後はバスケットボール・チームのメンバーになるために練習をして、アシュラムに戻ると、ピアノの練習をしていた。3つの別の人生を同時に生きているような感覚だったよ(笑)。10代の頃は、あまり目立ちたくないと思っていたけど、あらゆる意味でみんなと違ってた。自分の名前も変わっているし、学校にはあまりいろいろな人種の人がいなかったから、見た目もみんなと違った。スポーツが大好きだったけど、ものすごくスポーツが上手かったわけじゃない。それに、アシュラムで暮らしているから、サンスクリット語で歌いながらも、クラシックのテクニックを使いながら、ジャズの理論、ハーモニーの勉強をしていた。だから、地に足がついた感覚になれるまでは、何年もかかったよ(笑)。

—— ヒップホップにも影響されていたそうですが、ヒップホップの生々しいリリックと、アシュラムのスピリチュアルな価値観との間に衝突はなかったですか?

SB : アシュラムはスピリチュアル・コミュニティだったから、誰も悪い言葉を使っていなかったし、誰もそういうメンタリティではなかったんだ。そんな中で僕はヒップホップの生々しいリリックを聴いて、衝撃を受けたよ(笑)。ラップを聴いて、「こんなことを言っていいの?」という気持ちだった。ラッパーの人たちは、ちゃんとした理由があってそう言うリリックを発していたことを理解するようになった。80年代、90年代はヒップホップ、そして特にウェストコースト・ヒップホップの黄金期だったわけで、NWAとその周辺な音楽には多大な影響を受けた。アイス・キューブ、ドクター・ドレ、トゥパック、スヌープ・ドッグも大好きだったし、DJクイックの音楽的深みのあるトラックにも影響された。その他に、80年代、90年代のR&Bが大好きだったんだけど、ニューエディション、ジョデシー、 ボーイズIIメン、マライア・キャリーなどに多大な影響を受けた。ジョデシーは未だに毎日聴いてるよ(笑)。セロニアス・マンクを学びながらも、そういう音楽が頭の中で全部混ざり合ってた。そして、コルトレーンという名前がジャズ界で重要な意味を持っていることも後から理解した。スワミニ・トゥリヤサンギータナンダがアリス・コルトレーンと同一人物であるということは、10代になってからやっと知ったんだ(笑)。アリス・コルトレーンという名前の重みを全く知らなかったんだ。彼女の名前がアリス・コルトレーンだということは知っていたけど、音楽の世界で、それがどういう意味を持っているかは把握していなかった。15歳からジャズを本格的に勉強し始めて、音大に行ってから、「あーなるほど、アリス・コルトレーンってすごいんだ!」ってやっと気づいたんだ(笑)。いつも会っていた親戚が、実はすごい人だということに後から気づいた、っていう感覚だよ。

—— アリス・コルトレーンからは、毎日音楽レッスンを受けていたんですか?

SB : いや、毎日レッスンがあったわけじゃない。彼女とは、正式な教育のスケジュールがあったわけじゃないんだ。彼女から受けた最も深い音楽的な教育は、僕と同年代の人たちにバガヴァッド・ギータ(ヒンズー教の聖転)について教えてもらった時だった。具体的に言うと、バガヴァッド・ギータの第2章と第9章について教えてもらった。教えてもらう時は、毎週僕がキーボードをセッティングして、彼女が指示された通りに、僕はバガヴァッド・ギータの音符、キーで演奏をした。その時に、彼女がキーボードに近づいて、具体的な指示を受けることがあった。師匠に教えてもらう時は、時間は素早く過ぎ去るから、教えてもらったことを注意して吸収するしかなかった。

—— 最終的に、なぜアリスト・コルトレーンのアシュラムを離れることになったのでしょうか?

SB : 僕はニューヨークに行って、大学に入って演奏技術を磨くようにアドバイスされたんだ。ラヴィ・コルトレーンが僕に、「レジー・ワークマンが教えているニュースクール大学に行くといい」というアドバイスをくれた。そのアドバイスの通りに、僕は入学することにしたんだけど、ニューヨークのことは何も知らなかった。それまでは、僕はバンドをやりながら短大に入ったけど退学して、方向性を見失っていた。それで、ニュースクールに入ることにしたんだけど、オーディションを受けないといけないから、練習に専念することにした。友人がニューヨーク大学に通っていたから、友人とリハーサルがあるということを口実にして、僕は大学のリハーサル・ルームに忍び込んで数ヶ月間ピアノを練習していた(笑)。

NEA Jazz Masters: Reggie Workman (2020)

—— 大学に入学する時は、アリス・コルトレーンとラヴィ・コルトレーンにアドバイスされたのでしょうか?

SB : 最初は主にラヴィに言われたんだけど、そのあとはスワミニに「あなたはニュースクールに行きなさい」と言われた。それだけではなく、ジョン・コルトレーン・ファウンデーションが最初の1年の学費の奨学金を払ってくれたんだ。大学はとても高いから、スワミニとジョン・コルトレーン・ファウンデーションが最初の1年の学費を出してくれなければ、僕は行くことはできなかった。だから、とても感謝してるよ。

—— ニュースクールに入ってどうでしたか?あなたがアリス・コルトレーンの弟子ということで、羨ましがられたりしましたか?

SB : いや、誰にも羨ましがられなかったよ。殆どの学生が僕より上手かったからね。現実は厳しかった。本当にすごく上手な学生ばかりだった。僕が入学した当時、ロバート・グラスパーが2年生だった。ストリックランド兄弟も彼と同学年で、キーヨン・ハロルドは僕と同学年だったけど僕より全然レベルが高かった。トランペット奏者のジョナサン・フィンレイソン、ラキーシャ・ベンジャミンは同学年だった。だから、ものすごいレベルの高い若者がたくさん集まっていて、みんな楽譜の読むレベル、採譜のレベルなど、基礎技術のレベルがずば抜けて高かった。僕にはその基礎知識が欠けていたんだ。自分の演奏レベルは悪くないとは思っていたけど、早めにみんなに追いつかなきゃ、という気持ちになった。知らないことがあると先生に注意されることもあったけど、自信は失わなかった。なぜかというと、入学してから早めに自分がストレートなジャズ・プレイヤーにならないことを気付かされたからなんだ。

Robert Glasper Experiment: NPR Music Tiny Desk Concert

—— 音大に行くことで、スタンダードなジャズ・ピアニストではなく、独自のサウンドを切り開こうという気持ちになりましたか?

SB : 僕が影響を受けたヒップホップ、スピリチュアル・ミュージック、アシュラムの世界観、ジャズ・センスを融合させたいと思っていた。それが等身大の自分だから、それを表現したかった。スタンダード・ジャズをマスターして、それを30年間演奏し続けたいとは思わなかった。まず、それをすでに僕よりも得意な人たちがやっているからなんだ。それに、そういう人生を送っている人たちの多くは幸せには見えなかった。達成感はあっても、平和な生活、幸せには見えなかった。それに、そういう生活を送っているミュージシャンの多くは健康的には見えなかった。だから、僕は別の道を探さなきゃ、と思っていたんだ。

—— Luaka Bopからリリースされたアリス・コルトレーンの「World Spirituality Classics 1」のリリース・イベントがZebulonというクラブで行われ、そこであなたの演奏を見ましたが、あのリリースに関わることができてどうでしたか?

SB : 僕はコンサルタントとしてあのリリースに関わって、彼女の音楽の背景を伝えることができたと思う。そしてこのリリースのコンサートの音楽ディレクターを務めた。あのコンピレーションに入っている音楽は、彼女がアシュラムで歌っている音楽だったんだ。例えば僕は、「彼女がソプラノで歌っているバージョンを使った方がいいよ」とか、そういうアドバイスをした。Luaka Bopは、アーティストがその作品を作った時の時代性をちゃんと反映することに力を入れているから、素晴らしいレーベルだよ。僕は、助言をできてとても光栄だった。この作品がリリースされた時、ちょうどアシュラムが閉鎖されて、アシュラムの土地が売却されて、そこに住んでいた人たちが引越しをしないといけなかったら、僕にとって辛い時期だった。だから、この作品に関わることができて、僕のグル、そしてアシュラムとのつながりをまた感じることができた。このアルバムがリリースされたのは、スワミニが亡くなって10年が経過してからだった。

—— カルロス・ニーニョと出会った経緯と、なぜ「Everyone’s Children」でコラボレーションをすることになったのか教えてもらえますか?

SB : ミゲル・アットウッド・ファーガソンに紹介されたんだ。ミゲルが、ビルド・アン・アークのメンバーとしてカルロスに僕を推薦してくれたんだ。それがきっかけで正式にカルロスと出会ったんだ。でも、カルロスはその前に、一度アシュラムに来たことがあったんだけど、そこでは会ってないんだ。ビルド・アン・アークで初めてカルロスと一緒に演奏してから、彼と定期的に連絡を取り合うようになった。カルロス・ニーニョがベニスビーチにあるThe Del Monte Speakeasyというクラブのブッキングを担当していて、彼が僕をソロ・ライヴやいろいろなイベントでブッキングしてくれるようになった。2011年くらいに、一緒にアルバムを作ってコラボレーションをしようとカルロスに言われたんだけど、僕は子供が生まれたばかりで忙しくなってしまったんだ。そのあとの数年間は一緒に演奏する機会が増えて、さらに仲良くなったんだ。カリフォルニアがロックダウンになる直前に、The Del Monte Speakeasyでライヴをやることになっていたんだけど、ライヴ当日にカルロスから連絡があって、「ロックダウンになったからライヴがキャンセルになった」と言われたんだ。デズロン・ダグラスがLAに来てくれて、一緒に演奏するはずだったけど、会場が使えないから、僕の母親の自宅でライヴをやることになったんだ。その時に、カルロスとアルバムを作ろうと話し合ったんだ。1年後に、カルロスと一緒にジェシー・ピーターソンとミア・ドイ・トッドの自宅スタジオに集まって、そこでアルバムのレコーディングを始めた。何回かレコーディング・セッションをやったんだけど、レコーディング二日目からアルバムの形が見えてきた。

Carlos-Nino(L) Surya-Botofasina(R)

—— レコーディング期間は?

SB : 2021年からレコーディングを始めたんだけど、数日間だったよ。おそらく、4回くらいレコーディング・セッションをやって、その後にオーヴァーダビングをした。最後にレコーディングした曲が、メーガン・スタビルに捧げた”Meghan Jahnavi”だった。彼女は、今年の6月12日に亡くなった。彼女は僕のパートナーだったんだ。レコーディング・セッションはその前に全て完了していたんだ。カルロスがアルバムのプロデュースをしたから、彼は編集と曲順を担当してくれたんだ。2時間半以上のレコーディングした素材から、1時間20分の作品にまとめてくれた。初日は、エファ・エトラマ、ネイト・マーセローなど何人かのメンバーでレコーディングしたんだけど、二日目は僕とカルロスだけだった。僕はどちらかというと、自然の流れに任せようと思っていたけど、カルロスはレコーディングされた素材をつなぎ合わせて、僕の全ての側面を反映させた作品を作れると確信したんだ。彼と口論になることはなかったし、リラックスして作業を進めることができた。

—— 「Everyone’s Children」をリリースする前から、コンセプトは決まっていましたか?なぜこのタイトルにしたのでしょうか?

SB : 最初のコンセプトは、「仲間と演奏しよう」ということだけだった(笑)。アルバムをレコーディングする前に、カルロスと僕は、一緒にたくさんライヴをやってきたから、美しい音楽的な会話ができるようになっていた。スタジオに行くために、カルロスと一緒に車に乗っている時に、「Everyone’s Children」というタイトルを思いついたんだ。このアルバムにおける一つの重要なテーマは、シャクティ・エネルギー、つまり母なるエネルギーなんだ。どの人間も、母親から生まれ、誰もが心の中にインナーチャイルドがいる。人間はみんな母なる地球の子供なんだ。ある時、親友の母親がスタジオまで運転してくれて、彼女ととても深い会話をしたんだ。彼女は僕の母親と当時一緒に住んでいた。その親友の母親が、僕の実家で数ヶ月後に突如、睡眠中に亡くなってしまった。その女性はマージーという名前なんだけど、”Waves for Margie”は彼女に捧げられた曲。僕の音楽活動、そして僕のキーボードの演奏をずっと応援してくれたのがマージーだった。最初のセッションで、ミア・ドイ・トッドがスタジオに入ってきたんだけど、彼女は息子を出産する数週間前だった。8ヶ月妊娠していた状態だったんだけど、妊娠中の女性は特別なエネルギーを持っているんだ。彼女が息子を宿しているエネルギーに触れたから、このアルバムの内省、奉仕というテーマ以外に、次の世代たちにより良い世界を作りたい、という願いを込めたいと思ったんだ。そういう意味で、「Everyone’s Children」というタイトルにしたんだ。僕はサイ・アナンタム・アシュラム、スワミニ・トゥリヤサンギータナンダのスピリチュアルな子供でもあり、それはこれからも変わらない。その事実を作品として残したいという気持ちもあった。

—— アルバムのオープニングを飾る”Surya Meditation”について教えてください。

SB : この曲は、アルバムの中心的な存在になった。この曲を演奏している時は、瞑想状態に入ったんだけど、完全に意識が飛んで、内なる幸福感を見つけることができた。演奏中は完全に意識が飛んでいたから、後でレコーディングを聴き返して、自分で何を演奏したかを思い出さないといけなかった(笑)。カルロスはそれを聴いて、「これだ!」って言ったんだ。カルロスがそれを言う時は、本当に確信を持っている時なんだ。28分くらいのテイクだったんだけど、彼は人間的に僕を知り尽くしているし、彼の豊富な音楽的知識に基づいた判断だったんだ。2つのキーボードを僕が演奏して、カルロスはパーカッションを演奏したんだけど、この曲を演奏しながら、音楽的にやっと自分の音楽的ホームを見つけたような感覚になった。自分の心の中に深く入り込んで、本当の意味で内省ができたと思う。カルロスはこの曲を後でほとんど編集せずに、後で微調整したくらいだよ。

—— “Beloved California Temple”という曲は、あなたがアシュラムで育ったことをテーマにしているのでしょうか?

SB : この曲は、カルロスがタペストリーのようにまとめあげたんだ。僕が演奏したピアノのテイクから、一部をサンプリングして、それをループさせた。その上に、僕がオーヴァダビングでフェンダーローズ、ピアノを演奏した。さらに、カルロスがドワイト・トリブル、ネイト・マーセロー、エファ・エトロマ、パブロ・カロゲロを参加させて、中間セクションを作った。エンディングが、また僕のピアノのループに戻るんだ。ある意味、ヒップホップ的なアプローチで作りあげた曲なんだ。最初に曲のアイデアをカルロスから聞かされたときは、「どういうこと?」って思ったけど、最終的には大満足だったよ(笑)。この曲は、僕が育ったアシュラム、マンディール(寺院)をテーマにしている。それに、このアルバムをレコーディング中にテンプルという名前の女性の友人が亡くなったから、彼女へのオマージュでもある。彼女はミュージシャンでもあったけど、音楽を心から愛していて、僕のバンドを昔から応援してくれていたから、この曲を彼女に捧げたかった。

—— アリス・コルトレーンの声も最後の曲に入ってますが、なぜ彼女の声を入れたのでしょうか?

SB : スワミニ・トゥリヤサンギータナンダがアシュラムで説法を説いていた言葉を使ったんだけど、彼女はメディテーションについて話しているんだ。彼女がみんなの前で話していた言葉を作品に入れたいと前から思っていた。彼女の声は、僕の心の中でもいつもナレーションのように聞こえているから、それを反映させたかった。僕はスワミニと彼女の家族と一緒に育ったから、リリース前に彼女の家族に聞かせて、許可をもらったんだ。これははっきりさせておきたいんだけど、この曲は「フィーチャリング・アリス・コルトレーン」ではないんだ。そんなクレジットをつけるのは道理に反しているし、僕が知っていたアリス・コルトレーンではない。僕が知っていたのは、スワミニなんだ。スワミニが近くにいるときは、僕は背筋をピンとさせて、身なりをちゃんとさせて、言葉遣いを気をつけた。だから、アシュラムと僕らにとっての神聖な母だったスワミニへのオマージュとして、彼女のメッセージを入れたかった。彼女の声は、サイ・アナンタム・アシュラムのマンディールの中で録音されたものだけど、それを強調させるためにこの曲でループさせているんだ。

—— このアルバムはとてもリラックス効果があって、そういう効果のあるジャズの作品は少ないと思いますが、リスナーがこのアルバムを聴いた時に、どのような効果を得て欲しいですか?

SB : このアルバムは、ジャズとかスピリチュアル・ジャズというカテゴリーに入られているのかもしれないけど、僕はそういう風にこの作品を捉えていない。”Meghan Jahnavi”は、メーガン・スタビルに捧げた曲だけど、彼女は様々な辛い経験を乗り越えた人だった。でも、彼女は最終的に今年の6月12日に自ら命を絶ってしまった。彼女はプロモーターとしてたくさんのジャズ・ミュージシャンの生活を支えていて、いつも他の人のことの面倒ばかりを見ていて、自分の面倒を見ることが不得意だった。彼女は長年うつ病で苦しんでいて、本当に乗り越える努力もしていた。彼女にこの曲を捧げたのは、彼女が僕にとって大切な人だったからだけではなく、リリースする大分前にこのアルバムを彼女に聴いてもらっていたからなんだ。彼女は、睡眠障害があったから、眠れないときは毎晩このアルバムを聴いてリラックスしていた。メーガンが生きていた時にこのアルバムを聴いていたのと同じように、このアルバムを聴くことで、心を落ちつかせたり、瞑想をするために使ったり、メンタルヘルスの為に使ってくれるのも最高に嬉しい。このアルバムをリリースできた喜びもあるけど、悲しい気持ちもある。彼女と一緒にリリースを楽しめなかったからなんだ。僕にとって、悲しみが続いているけど、彼女の曲を入れることで、メンタルヘルスの問題と向き合って、前進しようとしているんだ。メンタルヘルスの問題があっても隠れる必要も、恥に思う必要もないし、孤独に感じたり、希望がないと思う必要はない。

Surya Botofasina

—— 今後の予定は?

SB : 僕とカルロスとネイト・マーセローのメンバーでLondon Jazz Festival、オランダのLe Guess Who?フェスティバル、ドイツのケルンのKing Georgeというクラブでライヴをやるよ。2023年に同じメンバーでアメリカの西海岸のツアーもやる予定なんだ。僕とカルロスとネイト・マーセローのトリオで制作している作品もあって、他にもこの3人で参加した作品が来年リリースされる。自分の次のアルバムの方向性を考えているんだけど、リリースしたい音源がいくつかある。「Everyone’s Children」のライヴをやるときは、いろいろな場所やリトリートでやってみたい。スピリチュアルな活気を感じられる場所でライヴをやってみたいね。日本の都会や田舎とか、お寺などでライヴをやるのも夢だよ。日本に行ったことがないから、ぜひ行っていたい。声がかかれば、答えは間違いなく「イエス!」だよ(笑)。

RELEASE INFORMATION

アーティスト:Surya Botofasina(スーリヤ・ボトファシーナ)
タイトル:Everyone’s Children(エヴリワンズ・チルドレン)

発売日:2022/11/23
レーベル : rings
品番:RINC96
​フォーマット : CD​
ライナー解説:Hashim Bharoocha


OFFICIAL HP : Surya BotofasinaEveryone’s Children (ringstokyo.com)

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